実証主義の呪縛を超えたい

 先日及び、今年の一月に科学のことについて対話を行い、神楽坂で一度、お食事をともにしたアクエリアンさんのブログで、下記のようなお医者様に関する記述があった。

 「長年内科医を務められ、今でも先生を頼り診察を受けたいという患者さんを診ておられます。先生が強調されるのは、「経験に基づく医療」です。「五感に基づく医療、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚に基づき、患者の訴えをよく聞き、感情を加えた全人的な医療」を主張し、実践しておられます。一人の患者の診察に30分はかけるというアメリカの医療現場を経験され、日本の医療が検査重視に偏っていることが問題だと訴えておられます。病気の判断には、あらゆる感覚を駆使して得た情報と経験を総合し、ほんのちょっとした兆候からある種のひらめきまで得て、診断を下す。それが名医なのです。検査漬けと一律の医療報酬制度は、名医の存在を不要としているようですが、それを嘆き、すべての医者に名医を目指そうと呼びかけています。

 「経験に基づく医療」(Experience-based medichine, EBM)の対比されるのは、「科学的根拠に基づく医療」(Evidence-based medichine, これも同じく EBM)です。各種の検査と症状から患者の問題点を抽出し、過去のデータベースと照合し、患者の病気と治療方針を立てる、最近よく見られる医療です。一見科学的のようですが、松本先生は、それでは不十分だと主張して、「経験と科学的根拠に基づく医療」(Experience- and evidence-based medicine)の必要を強調しておられます。」

 アクエリアンさんは、こうしたお医者様の態度もまた科学的な姿勢に含まれるというお考えなので、私の科学に対する批判的意見に異論を持つのだろう。

 しかし、このお医者様のスタンスは、まさに私がこのブログで様々なことを書きながら求めているスタンスでもあり、「風の旅人」を制作するうえでの根本的な核でもある。だから、おそらく、このお医者様が「風の旅人」をご覧になれば、きっと共鳴してくださると思う。

 

 そうすると、アクエリアンさんと私のズレは、「科学」に対する定義の問題になると思う。

 上記のような真理に向かう慎重なスタンスを「科学」と定義付けるならば、私が「科学」を批判する理由などない。しかし、上記のようなスタンスは、科学とか芸術とかに関係なく、人間の真理探究に求められる資質というべきもので、何も「科学」の専売特許ではないと思う。むしろ、このお医者様のスタンスは、近代科学が現れる以前に人間が備えていたもので、経験に基づいた身体的感覚を大事にしながら知識偏重の頭でっかちにならずにモノゴトに向き合っていく態度であり、兆候を嗅ぎ分けたり、ひらめきも大事にするということも含めて、今日、「アニミズム」という言葉で簡単に括られてしまう生活様式の人が大切にしている感覚に近いものがあると私は思う。

 そうした経験と肌感覚を優先させながら、それを補完するものとして科学的根拠を位置づける態度。それは私が少し前に書いたように、身体的感覚を従属させる「論理」よりも、身体的感覚を下支えする「論理」が大切ではないか、ということに近いのではないか。

 だから、それを「科学」というのなら、私には何も異論はない。

 私が批判しているのは、身体的感覚を従属させるかのように「科学的論理と知識」を振り回し、優先させる傾向なのだから。

 ただいずれにしろ、「科学」という言葉で対話を行うと、方法論のことやスタンスのことなど包括するものが大きく曖昧になり、焦点がずれてしまうことがわかった。

 もう一度、言い直すと、私がこれまで批判してきたのは、「実証主義科学」だ。モノゴトを実証しようとするスタンスは、知的探究にとって大事なことであるとわかるが、「実証」つまり「結果」だけが尊重され、その呪縛から抜け出せなくなることに懸念がある。

 そして、「実証」に囚われるのは、「普遍」に囚われるからでもある。「普遍」というとまた定義の問題が生じるから、ここでは、「一般的に誰にとっても通用する答え」とする。それを希求するほど、実証の呪縛から逃れられなくなるのではないか。

 さらにその「答え」は、今を生きる一人一人の人間が、自分の身体感覚を通して身につけた智慧ではなく、誰か知らない人が、実験をして話し合って決めたことであり、それを学校教育などで知識として教わる間接的情報になる。だから、そうして教わる「答え」は、どうしても頭でっかちのものになる。

 そのようにして「一般的な答え」と称される「間接的情報」が世の中に溢れる。

 さらに民主主義社会というのは、誰もが同じ情報を共有することに意義が置かれるので、より「一般的な答え」と称する間接的情報が重視される。身体感覚よりも、「こういう一般的な答えは知っておかなければならない」という強迫観念とともに。

 さらに、その一般的間接情報には、「実証」と「結果」を重視する構造も盛り込まれている。「プロセスはどうでもいいから、結果はどうなの? 証明できるの? みんなに当てはまるの?」という類のものだ。

 そうした構造を利用して広告やPRが行われ、雑誌やテレビなども、小サンプルの検証であっても結果を得たということを大義名分として、ハウツーやお役立ち情報と称する間接的情報を大々的に伝える。さらに、戦争までが間接情報のなかでの「実証」の論議になる。先の靖国神社に対する昭和天皇のメモについても、保守派の論客は、「メモの信憑性」に対する慎重さを争点に議論をずらし、間接的情報VS間接的情報の戦いのなかで、「実証能力」の競争になってしまっている。インテリジェンスの基準が、この実証能力になってしまっているのだ。実証能力は、「より多くの事実を知っている」ということに裏打ちされる。「知っている事実」をどう活かすか、という能力の戦いになっていない。

 戦争などに関するこの種の問題意識に基づいて、私は、「風の旅人」の第21号(8月1日発行)を制作した。

 

 近代科学というのは、もちろん今後様々な形で発展しうる可能性があるもので、またそうでなければならず、その可能性を批判するつもりなど私にはない。

 しかし、根本的なところで、「実証」と「結果」の呪縛があるとすれば、先行きは暗いように感じてしまう。

 「実証主義」とか「結果主義」というのは単なる方法論の問題ではなく、一種の「世界観」だろう。

 世界のことを人間の力で必ず実証できるものとして捉えてしまうと、実証主義が全てに優先されてしまう。

 そして、世界観というのは、当然ながら、学問とか芸術の専売特許ではない。一人一人の生活に関わる全ての視点に関わることである。自然や人間社会への眼差しと行動の際の判断の基準、すなわち、生きるうえでの全ての指針が含まれて関与してくる。だから、世界観を意識しようがしまいが、生きているものは全て、世界観を所有している。仕事、教育、道徳、生活習慣、友好関係、法律、政治など、生きていく上で触れる様々なことに対する感じ方や考え方の全てに、世界観が息づいている。

 芸術とか文学に属するようなことを「世界観」とみなし、それと生活を分けて、生活とは別のところで「世界観」を楽しんでいるという人もいるが、そのような「分離」もまた、その人の「世界観」の現れであり、分離することじたいが、近代的思考の癖ではないかと私は思う。

 そして今日の世界観のなかに、「実証主義」と「結果主義」の楔が打ち込まれていて、その呪縛から逃れにくい構造があるとすれば、それは何とも息苦しい人生になってしまう。

 今日、科学的であることを説得材料にして論戦をする人は、この「実証主義」と「結果主義」の呪縛に囚われていることが多いのではないかと思う。

 私は、今日の教育をはじめとする様々な歪みを修正していくためには、「実証主義」と「結果主義」を超えた新たな眼差しと思考、つまり新しい<世界観>ができあがっていくことが大事だと感じており、それが次なるパラダイムシフトだと思っている。

 もちろん、そのような視点で、世界や人間を感じ考え努力をなさっている方は、上に述べたお医者様のように大勢いる。

 しかし、そうしたスタンスが、「誰にでもあてはまる答え」を優先する「実証主義」や「結果主義」の壁に跳ね返される現実も多い。私の身の回りでも、そういう例は数え切れないほどある。 

 私は、「風の旅人」の各号の異なるテーマのサブタイトルに、いつも同じ「永遠の現在」という言葉を使っている。

 この言葉にこめられたものは、「普遍性を願うけれども、それは、誰にでも当てはまる答えにあるのではなく、唯一性の中に宿っているのではないか」という問いだ。

 いつでも、どこでも、誰にとっても通用する「実証」はないけれど、今この一瞬の自分と対象との関係には、この瞬間でなければ感じとれない様々な機微がある。それは、二度と繰り返さない唯一のものであり、そういう思いがあるからこそ、かけがえなく永遠である。そして、どんな一瞬にも、宇宙の摂理が流れ込んでいる。だから、状況に関係なく、そこに美は存在している。自分の身体の記憶を辿れば、それは誰にでも発見できる。普遍性というのは、そうした美の感じ方のなかに宿っている。

 こうした思いは、科学とか芸術とか文学とか関係なく、一つの世界観だ。そして世界観は、人生観でもある。

 さらに、人生は旅であり、旅は人生だ。(中田選手の真似ではないです)

 目的地に早く到着することを全てに優先させる合理性を重視する考え方も世の中にはある。その目的重視の合理性は、比較的誰にでも当てはまる解答でもある。

 しかし、移動中の風景とか、名も知らぬ駅で出会った子供たちの印象的な振るまいとか、プロセスの方に意義があれば、その旅は、自分に固有で唯一のものになる。

 実証や結果をはじめ合目的であることが大事なことも多く、その全てを否定するつもりもない。しかし、その優先性が強すぎると、やはり問題は大きいと私は思う。結果は、「得ようとするもの」ではなく、「ついてくるもの」になればいいのになあと思う。

 小学校三年生の我が息子の学校での宿題日記があって、そこに「お手伝いをしたこと」を書く欄があり、<お手伝いの内容>と<目当て>を分けて書くようになっている。<目当て>という生々しい言葉を使い、それを子供に記述させるという合目的性の重視に目を曇らされた機微の分からぬ鈍感さが、今日の学校教育の一部にあることは確かだと思う。



風の旅人 (Vol.20(2006))

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