世界のつながり

 「世界はつながっている」という言葉は、私も時々使うし、様々なところでよく耳にする。

 「みんな仲良くしなくてはならない」という学校教育もそうだし、昨今のグローバルスタンダードというやつもそうだ。

 でも、どうなんだろうか。「意識してみんなで手をつなぎましょ」、「みんな仲良くしましょう」、「みんなで規格統一して同じコトをしましょう」という標語は、「世界がつながっている」ということと違うのではないかという感覚が私の中にある。

 どんなものにも固有の波長というものがある。波長が合うものもあれば、波長が合わないものもある。モンシロチョウと花は波長が合うかもしれないが、モンシロチョウと蜂は波長が合わないかもしれない。モンシロチョウと花は、直接つながるかもしれないが、モンシロチョウと蜂は、直接的にはつながらず、関係の糸がまわりまわって間接的につながっているだけかもしれない。

 モンシロチョウが蜂を避ければ、蜂との関係を断っていることになるかというと、そうではない。モンシロチョウが蜂を気にして避けるのであれば、そこに磁石のN極とN極に近い関係が生じている。自然界には、N極とS極の関係もあれば、S極とS極の関係もある。

 そして、N極とN極は、近づきすぎて強力な反発力が発生しないように、常に微妙な間合いがある。笹藪の中を歩く時に鈴を鳴らすのは、熊に合図を送り、その間合いを保つためだろう。N極とN極が突然正面で遭遇したら、急激な反発力が生じ、事故につながるのだから。

 N極とS極の関係なら自然とくっついていくし、同極同士の関係ならば、適当な間合いを保つ。そのようにして世界は整えられ、つながっている。それぞれのモノの間合いが絶妙に保たれながら、直接的および間接的な関係で総合的につくられているのが、世界なのだろう。

 しかし人間の意識は、「つながる」ということに価値を置くとなると、なぜかN極もS極も関係なく、手と手をつながなくてはならない」という発想になることが多い。そんなことを強引にしてしまうと、N極とN極の間には当然ながら強い反発力を生じる。強い反発力を感じているもの同士を狭いところに閉じ込めたら、時空が歪んでいく。

 本当につながるためには、N極とN極をくっつけるのではなく、適当な間合いをとることが大事で、そうすることによって、それぞれのN極が安定し、その安定したN極の傍にあるS極が引き寄せられ、また近づいたS極とS極が微妙な間合いを取っていく。そのようにして世界は、なるべくしてなるような形に仕上がっていく。

 N極とN極を強引にくっつけたり、熊にパニックを起こさせる接近の仕方をするなどして、波長を乱さないこと。それが世界がつながるために大事なことではないか。

 モノゴトの波長に気を配るというのは、空気や機微や流れを読むことでもあるだろう。そして、目を配り、気を配り、心を配りながら、適切な間合いを探るということだろう。

 花の周りを飛ぶ蝶は、蜂の動きを気にかけながら、適当な間合いを保ち、適当なタイミングを選び、蜜を吸い、花粉を運ぶ。蜂と強引にくっつくと、蜜を吸うことも、花粉を運ぶこともできなくなって世界の循環の外に出てしまい、結果的に世界とのつながりを断ってしまう。

 「手と手をつなぐ」という行為は、マニュアル化して頭で覚えやすい。しかし、「間合いを探り、適当な距離を保ち、機を見て、近づいたり遠ざかったりする」という行為は、身体的な感覚を総動員しなければできないことで、マニュアルでは対応できない。

 学校教育も企業の現場も、マニュアルでは対応できない力を育むことが疎かにされているように感じる時がある。

 マニュアル化によって覚えさせられた「つながり」に依拠すると、モノゴトの流れや空気や機微に無関心になって反応できなくなるから、自然な間合いが読めず、常にギクシャクとした動きになり、状況の変化や相手のちょっとした踏み込みに腰がくだけたりして、自らの姿勢を保ちにくいものになるだろう。 



風の旅人 (Vol.21(2006))

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