自己滅却の表現

 「風の旅人」のように写真を多く掲載する雑誌は、今日あまりないので、写真家からの売り込みは多い。それじたいは特に問題ではないが、不愉快な売り込みがあると、テンションが下がる。

 「風の旅人」を本屋で立ち読みしたり、友達に少し見せてもらっただけで、「風の旅人は、写真をメインにしている雑誌のようなので、自分の作品を載せてもらえませんか?」とか、「写真を撮っているので、何か仕事はありませんか?」というスタンス。

 まあ、街角でだれかれ構わずナンパしたり、勧誘したり、名簿にしたがって手当たり次第に電話するマンションや金融商品のセールスのようなものだ。

 人それぞれの方法があるので、他でやっている分はどうでもいいが、そういう感覚の人と一緒に仕事をしようという気にはなれない。

 「風の旅人」に興味を持ってくれるのは嬉しいが、その興味の持ち方があまりにも浅く、その”浅さ”が、きっと写真にも現れているだろうと予感できるので、会っても無駄だと思ってしまうのだ。

 創刊の頃、そういう人とも頻繁に会っていたが、例外なく、ダメだった。

 写真というのは、シャッターを押せば写るわけだから、絵や文章よりも表現(らしきもの)を行いやすいし、行っているつもりになりやすい。

 しかし、その大半は、独りよがりの自己主張にすぎないものが多い。表現=自己主張だと勘違いしている。自己主張が溢れ、それがゆえに歪んでいる今日の社会で、表現者は、その「自己主張」のなかにある問題に目を向け、「自己滅却」の方向で表現活動をすべきだと私は考えている。

 しかし、「自己滅却」ということを意識しても、できる筈がない。

 「自己滅却」ということを意識しなくても、表現の対象に深い畏れとか敬愛とか憤りを始めとする様々な思いが生じていて、その思いに従って表現しているものは、卑小な自己が付け込む隙がない。そうした作品は、発見とか驚きとかがあり、新しい視点を与え、古い自己の殻から脱皮できるような感覚になることがある。

 どんな人間も自己にこだわりがあるが、その自己を壊してしまいたい衝動というものもあり、素晴らしい作品というのは、その機会を与えるものなのだ。

 

 それに比べて、対象を自己表現の素材にしようという魂胆だけで作られているものを見ても、「ああそうなの」と思うだけで、自分は何も変わらないし、変わる可能性も感じさせない。自分自身の頑なな自己を再認識させるだけのこともある。

 対象との”邂逅”による必然性の上で行われている表現は、固有性を感じるし、その固有性に自然を感じる。

 どこかで見たことがあるものや、その人ならではの必然性をまったく感じられないものは、見ていて、とても不自然を感じる。

 対象との間に生じる関係性の必然の流れのなかで表現活動を行う構えができている人は、「風の旅人」に対しても、「風の旅人」という存在の必然の流れを感じとってくれて、その流れの中に自分の作品が位置づけられればいいという感覚でコミュニケーションしてくれるので、そういう人とは話しが通じるし、縁もできやすい。

 もちろん、誰しも食っていかなければならないので、食うための手段として写真を売り込むことは必要だ。雑誌だって、売れてなんぼの世界だ。

 しかし、下手な鉄砲を数打てば当たるというスタンスで、本当に玉が当たるのだろうかと私は疑問に思う。

 相手をしっかりと見定めて、それに向かって渾身の力で矢を放った方が、実際には確率が高いのではないだろうか。

 もしくは、もしも本気で表現していて、伝えるべき思いがあり、その思いを人に届けたいという強う衝動を持っている人は、電話だと自分の思いの微妙なところは伝わらないと感じ、手紙とかを書くのではないだろうか。もしくは、たとえ電話であっても、その人の息づかいが充分に感じられるものになるのではないだろうか。

 恋人が欲しいという理由で、「ちょっと電話してみました。彼女になってくれる可能性ありますか?」と言われて簡単に応じる人は、まあ少ないだろう。その感覚で売り込みをして通用するのは、よほど相手が暇な時だけだと思う。

 自分の思いがあっても、その思いがなかなか伝わらない現実がある。その狭間で生じる葛藤は自分ならではのものだ。その自分ならではの葛藤を何とか解決しようと行動する時、そこにはじめて自分の固有の行動というものが生まれるのではないか。

 おそらく表現の固有性というものも、同じだろうと思う。表現の独自性というのは、小手先のテクニックではなく、人にはなかなかわからない自分ならではの”葛藤”が下地になっているものでないだろうか。

 私は今たまたま「風の旅人」を作っている。でも、それは、媒介者として作らされているにすぎない。むしろ、創らせていただいているといった方が、相応しい。

 「風の旅人」を通じて出会う写真や言葉は、それらに触れることができただけで、今日まで自分が生きてきた意味があったのではないかと感じるほどのものであり、その思いだけで制作しているようなところがある。

 だから、終わるべき時がきたら、いつ終わっても構わないと思っている。その終わるべき時というのが、どういう状況なのかよくわからない。わからないけれど、終わるべき必然の時に終われるように自分の身辺を整えておくこと。一回一回を、できるだけ悔いのないようにやっておくこと。常に、「この仕事は、これで終わってもいい」と思えるように取り組むこと。

 人間社会で生きていくことは、食べていくことも含めて様々なしがらみがある。それらのしがらみに縛られてしまうのも人間であるが、それらのしがらみにできるだけ囚われないように努力するのも、人間ならでは性質だと思う。

 好きなことをやるという「自己目的に添った行為」だけが自由なのではない。

 必然に応じて動けるという「対象との関係性に添った行為」も自由であり、自己滅却の表現は、その種の”自由”に近い行為なのではないかと私は思う。