「いのち」を循環させる織物

 「裂織」という織物に感動した。

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 私は、もともと絨毯など手織の織物が好きで、海外での土産は、織物が多い。(織物以外では、木彫りのようなもの。その土地ならではの手作りのものに惹かれる)。

 織物は、根気よく糸を織り込んでいく作業そのものも、とても美しく感じられる。

 今回見た「裂織」というのは、一度衣服などとして使い古した布を解きほぐして、もう一度、別の用途のために丁寧に織り込んだものなのだ。

 いわば「リサイクル」織物なのだが、単に再利用のための織物という境地を超えている。

 そこには、布を大切に慈しんできた人たちの「心」のリレーがある。

 大切な布をほぐしたり裂いたりして糸にする。その糸を横糸して活用しながら織物を織っていく。もう一度新たな生命を得ようとする糸には、以前、それを布として使用してきた人々の様々な記憶が秘められている。その記憶は、手触りとか風合い、表情などとなって、新しく織る人に伝えられる。

 新しく織る人には、布に対する慈しみがある。そして、人生がある。裂織を織る人のほとんどが主婦であり、自分が生きる生活風土や人間関係の中で育んできた様々な感受性や思いがある。その思いと感受性と、前の人の記憶が、布を慈しむ心を通じてつながって、新しいイメージがつくり出される。前の人が使い込んできた布だからこそ生じる味わいが、次なる人の熟練の手によって引き出される。その布を介した出会いは偶然であるが、そこから生じる美しいイメージは、必然になる。

 作り手には、作りたいイメージが意識されているが、糸を介した「心」の呼応は、無意識的なものであり、偶然と必然、意識と無意識、自分と他者の「心」が縦横に織り込まれて美しい織物ができあがっていく。 

 機織りは、頭でっかちになって手を動かしてできるものではなく、身体に潜むリズムで織り込んでいく。そのリズムが、糸の選択に伝わり、イメージを生み出す波長となり、強弱の加減となる。

 だから、そこから生まれてくるビジュアルは、それを見る人の身体に宿る「いのち」のリズムと呼応するものがある。

 20世紀という時代は、あまりにも頭でっかちで表層的な現代アートが大量生産された。そうしたアートを見ても、「いのち」のリズムはまったく伝わってこないのに、アートに寄生する評論家が、頭でっかちの注釈をつける。それを理解できないものは愚かで、芸術を見る目が無いのだと言わんばかりに。

 さらに、一般的に分別なく素晴らしいと感じるもの(たとえば、この裂織のような)を素晴らしいと感じるのを素人とみなし、注釈付きの「アート」の価値がわかること(わかっているふりも含めて)が、その”業界人”のプライドになっている、というなんとも傍から見れば滑稽な現状がある。アートに限らず、思想とか科学とか色々な所に専門の垣根を作って、その中だけに通用する虚栄が蔓延している。

 私は、「裂織」の展覧会で見た様々な作品に、「芸術」を感じた。

 「芸術」の定義は様々にあるだろうが、第一の条件が、「いのち」の深みを感じさせてくれるものだと私は思っている。

 私たちは、日々、食べて飲んで寝て働いて生きている。それらの行為は、自分の生活のために必要なことで、私たちは、その生活を、より快適で好ましいものにしようと努力する。

 しかし、そうした行為を延々と繰り返していても、自分に備わった「いのち」をフルに発揮して生きているという実感が伴わない。何か足らないと感じる。それはおそらく、「いのち」の表層の部分だけに関わっているからなのだ。

 生存を、より快適で好ましいものにするために糧を得るだけが、生きることではない。

 自分の中の奧深いところに、脈々と流れている「いのち」がある。その「いのち」全体を実感しながら生きることで、人間は、自分の生を全うした気持ちになることができるのではないか。

 「芸術」というのは、日常的に忘れやすいその感覚を、目覚めさせてくれる力を持つ。

 私はそのように「芸術」を理解している。

 そういう意味で、「裂織」もまた芸術なのだ。とりわけ、21世紀を生きていくうえで、とても大切な感覚を伝えてくる芸術だと私は思う。

 「裂織」を織るためには、自分の中に蓄えられた思いとかイメージが大事であり、その思いやイメージを具現化する技術が必須になる。

 そして、その思いとかイメージは、多くの主婦が実生活の中で育んできた「いのち」に深くつながっている。深いところで「いのち」に呼応できる人たちだけが、豊かなイメージを育んでいる。そして、そのイメージと技術の間をつなぐ素材として、他者の「いのち」が染みこんだ使い古しの布がある。その他者の「いのち」に呼応する感受性も大事になる。

 それらを総合的に束ねていくのが、頭ではなく、身体のリズムである。

 そうしてつくり出された新しい「いのち」の形は、頭でっかちになって磨り減っている現代の多くの人の「心」に、気づきを与える可能性がある。

 布は、生き物であり、「いのち」があり、「心」がある。

 その「心」を失うと、モノゴトを慈しむことも、有り難く思うことも失う。

 

 私が展覧会場で見た作品で一番心を惹かれたものは、青森の作家の田中アイさんという人が作った、「雪溶けのブナの森」だった。

 春先、森の中の雪が溶けていく光景を織り込んだものだが、まず樹木の周りの雪が、樹木の温かみによって溶け始め、立ち昇る水蒸気が、霊気のように見える。

 ブナの木と雪と水蒸気が、ユラユラと「いのち」を醸し出している。

 田中さんは、「私は絵をならったことなんか無いし、独学で自分のイメージだけで織っているだけですから」などと淡々と仰っていたが、瞳の奧に青い焔が揺らめいているような感じで、優しい表情ではあるけれど、少しこわかった。

 女性は、もともと男よりも肌感覚(第六感)が優れている。主婦業を一心に勤めるというのは、実生活のなかで決して頭でっかちにならず、その優れた肌感覚をふるに発揮して生きていくことだろう。とりわけ生活に困難があったり肉親と死別を重ねてきた主婦は、その肌感覚がいっそう磨かれ、独特の凄みと包容力があり、とても敵わないと思わされることがある。

 その主婦たちが子育てを終えて一息つくと、溢れるようなエネルギーの向かう先がなくなり、手近な娯楽に走る人もいるだろう。

 裂織を始めるのは、そのように人生のなかで一段落した主婦が多いみたいだ。

 彼女たちは、そのエネルギーを一心に織るという行為に向ける。私が展覧会場で出会ったのは、50代〜70代が多く、なかには80代もいた。人生に一段落して始めたといっても、20年、30年もの長きにわたり、裂織に魅せられ、全身全霊で取り組んでいる。

 だから上達も素晴らしいし、何よりも、それ以前に蓄えられたエネルギーも凄い。そして、身体感覚を総動員して織ることを続けているから、自然界や人間関係からどんどんエネルギーを吸収して、よりパワーアップしていく。だから、どの人も、とても若く見えて、生き生きとして、元気いっぱいだ。

 「裂織」、畏るべしだ。単なるリサイクルというより、「いのち」を循環させるこの織物は、昔の日本では当たり前のように行われていた。(海外でも同様のものがあるらしい)。

 一枚の布を通して、モノを気遣う優しさと、厳しい風土に生きる逞しさが、育まれていく。家族や他者に対するの思いやりは、そうした「いのち」の循環に支えられているのだろうと思う。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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