里山という、いのちを循環させる智恵

 今日、琵琶湖の近くの棚田の真ん中にある写真家の今森光彦さんのアトリエに行ってきた。

 今森さんは、15年以上、この場所にアトリエを構えて、周辺の里山を撮影している。

 今森さんのアトリエの建っている所は、もともと鬱蒼と生い茂る檜の林だった。それを伐採して、雑木林を作るためにコナラやクヌギなどを植えたのだと言う。それらの木が15年の歳月を経て、立派な林となってアトリエの周りを囲んでいる。木と木の間から棚田の広がりが見下ろせる。

 家の周りには畑も作って、様々な野菜を無農薬で栽培し、収穫している。

 今森さんは、以前は、世界中の様々な場所を旅して、昆虫をはじめとする自然の生態を撮影してきた。

 しかし、近年は、琵琶湖の里山にしっかりと根を下ろして、この周辺だけを活動の舞台にしている。その理由は、里山を表層的に見ると、ただの麗しい風景ということで終わるが、その内奥に入り込むと、様々な生物や植物と人間の知恵が複雑に重なり合っていて、取り組めば取り組むほど新しい発見があるし、その深さが面白くて仕方がないからだと話す。

 とりわけ、自然に対する人間の関与の仕方が、今日の我々の発想では及びもしない深遠さがあるのだと言う。

 例をあげればキリがないが、例えば、昔は、里山のなかの田と田の間の道は曲がりくねっていた。それは、地面の浅いところを流れる地下水に添っていたのだと言う。もし、まっすぐに道を作ると、水の流れが絶たれ、その圧力がかかったところから水が吹き出す。そうすると、水が満遍なく田に行き渡らなくなる。

 また、農作業では頻繁に土手の雑草を刈るが、それを怠ると、雑草が水を吸い上げ、その周りの稲の発育に悪い影響を与える。また、成長した雑草は間隔を広げようとするので、土手を形成する土が広がって弱くなる。また、強い植物だけが残り、単一になる。人間が頻繁に手を入れることで、土手の植物の生態が多様になり、必然的にそこに集まる生物も多様になり、多様であるがゆえに互いに牽制機能が働き、良い状態を維持できるのだと言う。

 それは雑木林のなかもそうで、私の家の近くの目黒の自然教育園などは、昔の雑木林を残すためということで人為をまったく介入させないスタンスをとっているが、それだと、本来の里山の雑木林にならないということだ。なぜなら、雑木林の中で背の高い木が陰を作り、その下の植物が育たなくなる。そうすると、単一の植物が林を支配してしまう。だから、適度に人間の手を入れることで、雑木林の多様性が維持できることになるのだ。

 ヨーロッパの森に比べて、日本の照葉樹林のなかは実に多様だ。その多様性は、人間の自然に対する付き合い方に理由があったのだろう。

 また、最近は用がないからといって苅られてしまう田畑の間の小さな木立なども、田の陰にならないようにこまめに枝を落として存在させることで、鳥の通り道となり、その鳥が害虫などを食べるという効果が計算されていた。

 そうした様々な人間的行為が里山の複雑な風景を作り出していた。しかし、最近は、道が直線となり、道の回りの木が苅られ、水をポンプで汲み上げて田に流している。それとともに、景観も単調なものに変わってきている。それを今森さんは、とても嘆いていた。

 しかし、その単調な景観よりも複雑で多様な景観の方を美しく思う心情は、現代社会に生きる私たちのなかにも残っている。美しく思う心情というのは、おそらく、とても大事なことを直観しているからなのだ。そうした心の機微よりも、目先の論理が優先され、道がまっすぐに整備される。

 昔の人は、自然の機微を読んでいた。表面的に見えることだけでなく、地下の水の流れも読み、その流れを損なわないように道を作った。机上の知識ではなく、生活に基づいて自然の裏側を見通す深い見識を備えていたのだ。

 今森さんとは、里山のこと、昆虫のこと、琵琶湖の生態系のことなど様々な話しをしたが、共通点は、今日の現状について嘆かわしいと思いながらも、決して絶望していないということだった。

 なぜ絶望していないかというと、確かに、今日の社会は、頭でっかちで実際の生活から遠い人たちの目先の論理によってモノゴトが推進されていく傾向があるが、多くの日本人は、心まで死んでしまっているわけではないと感じることが多いからだ。ただ問題なのは、心よりも頭を優先しがちなことだけで、心そのものが失われているわけではない。ボタンの掛け方一つで、頭よりも心を優先させる社会の実現が可能ではないかということで、話しは一致した。

 今森さんは定期的に子ども達に昆虫採集を体験させる活動をしているが、それに参加する子ども達は、実に生き生きとしているのだという。子ども達の心は死んでいない。場を失っているだけだ。だから、場を与えることができれば、子ども達は生き返る。昨日、紹介した裂織にしても、主婦達は、場を得ることで、驚くべき生命力を発揮する。

 次の総理の有力候補である安部さんは、「改憲」と「教育改革」を最重要課題としているみたいで、この国の行く末を憂うということで、「愛国心」とか「道徳教育」などを頻繁に口にする。こわもての小沢一郎さんが同じことを口にすると警戒心が生じるだろうが、ソフトな安部さんが言うと、何となく本当に国のことを憂いているような雰囲気も漂ってきて、それがゆえに、私は、少しまずいんじゃないかという気がする。

 この国のことを心配することは悪いことではない。しかし、方法論というか、ボタンの掛け方を間違ってはならない。

 「愛国心」とか「道徳教育」を、頭でっかちに机上の論理でやってしまってはダメだ。 

 たとえば、里山で生活をしようと思う時に一番大切なことは「挨拶」だと今森さんは言う。そして、道で出会う人と自然に世間話でもできるようになることが大事なのだそうだ。つまり、里山という人間も含めた複雑な生態系のなかで生きていくためには、人と人、人と自然の関係性こそがいのちであり、そのことがわかっていれば当たり前のように周りとの関係性を大事にするようになり、道徳も当たり前のように育っていくのだ。

 里山の智恵の真髄は、いのちを循環させる智恵だ。その智恵によって、自然と人間の健やかさが養われていく。

 だから、今日の社会でも、「道徳」を唱える前に、関係性が大事であり、いのちの循環を作り出さなければならない。いのちが死んでいるのに道徳を主張するのは、下手すると、空虚の苛立ちの反動としての「厳格さ」に陥る可能性がある。

 「道徳」とか「教育改革」とかを声高に主張する頭でっかちの人たちは、人間として付き合って感じの良い人たちなのだろうか。周りとの良き関係性を築くことが上手だろうか。試験の高得点を取ることだけが上手で、世の中の実際的なことはとても苦手ということはないだろうか。

 少なくとも、今日の複雑な国際関係のなかでは、相手をうまく生かすことが自分をうまく生かすことだとわかっている人でなければ、良き関係性を築けないだろう。

 日本人が、里山で培ってきたデリケートなバランス感覚で、里山のように複雑な国際関係を乗り切っていかなければならない。

 周りとの関係性を築くセンスの悪そうな人が、「愛」とか「道徳」とか声高に主張しても、真に受けない方がいいと思う。 



風の旅人 (Vol.21(2006))

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