生命の星

 9/3のエントリーに対して、tsutomu37からいただいたコメントに対する返答は、簡単に記してしまうと誤解が生じる可能性がありますので、下記の私の文章をアップします。

 これは、「風の旅人」第6号の「生命の星」という特集→http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/6/6_1.html に掲載されている野町和嘉さんのエチオピアの飢餓の写真に添えて、私が書いたものです。

 結論から言うと、私は、「人も含めあらゆる生き物の本来の目的は自分の子孫を残すこと」だけだと考えていません。もしそうなら、人は、「利己的な遺伝子」の乗り物ということになってしまいますが、私は、「遺伝子」よりも、「遺伝子」が生みだされたプロセスの方が重要だと思っています。そのプロセスを私は科学的に記述できませんが(その必要があるとも思えませんが)、私のイメージでは、下記のようなものになります。


 「私たちの遺伝子に刻み込まれた指令は、遺伝子を連綿と次世代に運んでいく為に、有効な行為と、実体のある形を切実に求める。そのために、一つ一つの個体を不完全なものに作った。特定の何かと結合してはじめて、生物の使命を成就できるように。不完全で満たされないからこそ、完全を求め、働き続ける。それが、生命の核に仕組まれた冷徹なプログラムだとすれば、不完全ゆえの不安定さと、不安定さのなかで藻掻き苦しむことは生物の宿命のようなものだろう。

 その宿命のなかで、激しい葛藤を繰り返しながら、最終的に、形ある成果に到達できない生物も無数にいる。

 たとえば、海に下った何万匹のサケの群のうち、川を上り、産卵の目的地まで到達できるのは、一〇〇匹に一匹もいないという。目的を成就できなかった個体は、懸命の努力のプロセスだけを残して、屍の山を築く。そして、バクテリアに分解され、世界の隅々に還っていく。他の魚の餌になったり、水草の栄養分となったり、水草から連綿とつながっていく他の生物達の、何かしらの糧となって。サケに限らず、ほとんどの生物が、努力したことの見返りを充分に得ることなく、生涯を終える。にもかかわらず、形あるものを残し、伝えようと奮闘する。厳しい環境と対峙し、ライバル達と生命がけで格闘し、知恵比べを行い、結果として目的を成就できずに散っていった無数の生物が、時とともに姿を変え、形を変え、めぐりめぐって、その気配だけが世界に充満していく。

 しかし、たとえそのように明確な形がなく、不完全のまま終えたように見える生であっても、私たち人間の心に濃密に記憶されて、生き続けることがある。においとか、手触りとか、温もりとか、生物が真剣に関わっていた世界の感触が、突然、生々しく私たちの心を占めることがある。それは、頭で納得できるような事柄ではなく、身体を構成する六〇兆の細胞の一つひとつが開かれて何かに照応していくような、愛しいまでの感触だ。そのように不確かで、精妙で、それなのにいっそう心に染み透るものによって自分が生かされているように感じる瞬間が、人生のなかで幾たびかある。

 おそらく、本当の意味で生命というのは、宇宙に満ちて、宇宙上のあらゆる事物や現象に働きかける気配や力のようなものではないだろうか。自らに働きかけてくる力を感受することによって、自らの中に新しい働きが生じ、新しい何かが生起される。その関係性が生命というメカニズムの本質であり、生命という形ある実体がどこかに明確にあるわけではないように思う。

 何かに働きかけられ、何かに働きかけていく、そうした運動の繰り返しのうちに、新たな統一体のようなものが生まれるが、それもまだ完全ではないゆえ、細部も全体もとどまることなく働き、働きかけられ、その影響が大きくなったり、突然断ち切れたり、絡み合ったり、反発したりしながら、より複雑に組織化され、それでも決して終わることなく、働き、さらに働きかけられーーーー、時とともに個体や組織の繁栄と衰退と滅亡を繰り返しながら、プロセスを多層に積み重ねてゆく。その時間的な諸関係が世界を満たし、遺伝子の指令に従順に奮闘する生物達に、微妙に働きかけ、さりげなく下支えしている。そのように、目的を成就できるものも、そうでないものも、世界の仕組みの根本のところでは、世界そのものに深く配慮されている。そう思える瞬間が、この地球上に満ち溢れている。

 もし、地球がこの宇宙のなかで特別な星だとすれば、それは、この地上に、働き働きかけられる関係を無数に創り出すことによって、他のどんな星より、原生命とでも言うべき宇宙の仕組みを、露わに示していることだろう。そして、この地球上にもっとも新しく現れた組織体である人間の脳内には、それらの仕組みが、幾層にも重なって蓄積されているのではないだろうか。」


 というのが私の考えです。つまり、生物は子孫を残そうとする「衝動」が強いことは間違いなく、その「衝動」によって生物環境が整えられていることも一つの真実でしょうが、「子孫を残すこと」が生きる目的の全てではなく、たとえそれが叶わなくても、生きる目的が成就できる。受精にしても、生物の一形態である無数の精子の大半は目的を成就できませんが、だからといって、その生は必要なかったということではない。「結果」から遡って存在の価値や意味をはかるのではなく、一つの精子だけが受精できるという事実からもわかるように、「結果」は偶然と必然が重なってたまたまそうなったということであり、それはそれでかけがえのないことですが、それ以上に、「プロセス」をつくりあげる衝動(エネルギー?)にこそ、生命の真意があるように思います。


 上記の文章を含む全文は、下記のものです。


  生命の星    佐伯剛  (風の旅人 Vol.6より)

 「二八歳の母親と同居中の一八歳の高校生に、四歳の子供が虐待されて死亡。」

 同じ年頃の子供を持つ親として、このような新聞記事を見るだけで、やるせなさと、憤りで胸がいっぱいになる。

 こうした事件の当事者達とは、これまでも、そしてこれからも、私の実生活において、直接の関わりが無い筈だが、なぜか心が乱されてしまう。

 百年前なら、私たちは、今回の悲劇のように遠い場所で起こる出来事を、瞬時に生々しく知ることはできなかった。せいぜい、隣村の美しい娘さんが若くして難病で死んでしまったとか、川の氾濫で対岸の村が水浸しになってしまったとか、身近に起こる出来事だけが、自分たちの現実世界だった。

 しかし、今日のように世界中の情報が瞬時に飛び交う時代において、どこからどこまでが自分の現実世界なのか、明確に見通しをつけることは難しい。

 現代社会の一番の特徴は、家にいながらにして、地球上のあらゆる出来事を知ることができることだろう。

 遠い国の戦争やテロ、飢餓、エイズ、飛行機事故、幼児虐待、日本国内で一日に80人もの人間が自殺しているという報告・・・・、こうした悲惨な出来事とともに、利権絡みの姑息な企てを行った政治家の醜態や、芸能人の離婚話や、スポーツスターの活躍や、温泉情報が、ほとんど同じ目線で取り上げられて、日本国中に伝えられる。また、家にいても、街を歩いていても、様々な商品を訴求する広告を見ない時はない。テレビコマーシャル、折り込みチラシ、ポスターや看板、巨大映像、電車やバスの車体ペイント、それら莫大な数の文字と映像が、日々、大きな声で自己主張を繰り返している。

 各種の情報は、日々の生活の役に立つかどうかではなく、世界が無限の可能性で成り立っていることを誇示するかのように、その断片を、際限なく放出し続けている。

 そうした情報の洪水のなかを生きる私たちは、適当に世界を線引きをして、情報をさばきながら生活する習慣がついている。戦争の情報も、新車の情報も、芸能人や政治家のゴシップも、同じ箱の中で出し入れをすることになる。

 情報に触れるたびに何かしら反応する自分の心を意識することがあっても、それがいったいなぜそうなのか、ということを深く考えることは難しい。

 考えることで糧を得る専門の研究者ならともかく、速度と正確さが求められる管理社会の現場で、日々追われるように働きながら、すぐに見つからない答えを問い続けて生きることは、相当なエネルギーを要する。それが大切なことであると尤もらしく言うのは簡単だが、それ以前の問題として、実際に何をどう考えればいいか、ということから考え始めなければならない。

 そうして、知らず知らず情報を右から左に見送るだけの日々を過ごしていても、ふと日常に空白ができた時など、大海の中を行き先もわからず漂っているような自分の在り方に、胸が締めつけられるほどの不安を感じることもある。世界を、もっと自分に引き寄せ、その手応えを獲得し、自分の拠り所や、進む方向を明確にしたという切実な思いがこみ上げる瞬間がある。

 人間以外の他の生物達にとって、世界は、自分の生存と直接関係のある領域に限られている。だからそれは、整然と規則的で秩序あるものとして存在する。例えば、ケニアタンザニアの間を規則的に移動するヌーの大群には、自分達の行き先に青々と茂った草があることを信じて疑わない迫力がある。

 他の生物達にとって、自分の生存と直接関わりを持たない事象は、何も起こっていないに等しい。しかし、人間だけが、五感に届く情報すべてに強い関心を示し、それぞれの因果関係を読み、自分に引き起こされることをあらかじめ感じ取ろうとする。世界は常に流動的で、不確かなものだが、まったくでたらめなものでもないということを、人間はうすうす察している。それは、遙かなる昔、人間の祖先が、アフリカの大地を旅立った時から様々な世界を体験し、それに適応しようと奮闘する課程で、万物に宿る普遍性について想いをめぐらせてきたからだろう。

 そして現在でも人間は、行き先の定まっていない長い旅の途上にいる。右も左もわからないから、真剣に悩んでいる。自分の未来に関わりがあるのか無いのかよくわからないまま様々なことを気に掛けるし、時に強い親愛の情を抱いたり、憤ったりする。普遍的な生命の意味や目的を、生物および生物を含んだ世界全体のなかに探ろうとするかのように。

 私たちの遺伝子に刻み込まれた指令は、遺伝子を連綿と次世代に運んでいく為に、有効な行為と、実体のある形を切実に求める。そのために、一つ一つの個体を不完全なものに作った。特定の何かと結合してはじめて、生物の使命を成就できるように。不完全で満たされないからこそ、完全を求め、働き続ける。それが、生命の核に仕組まれた冷徹なプログラムだとすれば、不完全ゆえの不安定さと、不安定さのなかで藻掻き苦しむことは生物の宿命のようなものだろう。

 その宿命のなかで、激しい葛藤を繰り返しながら、最終的に、形ある成果に到達できない生物も無数にいる。

 たとえば、海に下った何万匹のサケの群のうち、川を上り、産卵の目的地まで到達できるのは、一〇〇匹に一匹もいないという。目的を成就できなかった個体は、懸命の努力のプロセスだけを残して、屍の山を築く。そして、バクテリアに分解され、世界の隅々に還っていく。他の魚の餌になったり、水草の栄養分となったり、水草から連綿とつながっていく他の生物達の、何かしらの糧となって。サケに限らず、ほとんどの生物が、努力したことの見返りを充分に得ることなく、生涯を終える。にもかかわらず、形あるものを残し、伝えようと奮闘する。厳しい環境と対峙し、ライバル達と生命がけで格闘し、知恵比べを行い、結果として目的を成就できずに散っていった無数の生物が、時とともに姿を変え、形を変え、めぐりめぐって、その気配だけが世界に充満していく。

 しかし、たとえそのように明確な形がなく、不完全のまま終えたように見える生であっても、私たち人間の心に濃密に記憶されて、生き続けることがある。においとか、手触りとか、温もりとか、生物が真剣に関わっていた世界の感触が、突然、生々しく私たちの心を占めることがある。それは、頭で納得できるような事柄ではなく、身体を構成する六〇兆の細胞の一つひとつが開かれて何かに照応していくような、愛しいまでの感触だ。そのように不確かで、精妙で、それなのにいっそう心に染み透るものによって自分が生かされているように感じる瞬間が、人生のなかで幾たびかある。

 おそらく、本当の意味で生命というのは、宇宙に満ちて、宇宙上のあらゆる事物や現象に働きかける気配や力のようなものではないだろうか。自らに働きかけてくる力を感受することによって、自らの中に新しい働きが生じ、新しい何かが生起される。その関係性が生命というメカニズムの本質であり、生命という形ある実体がどこかに明確にあるわけではないように思う。

 何かに働きかけられ、何かに働きかけていく、そうした運動の繰り返しのうちに、新たな統一体のようなものが生まれるが、それもまだ完全ではないゆえ、細部も全体もとどまることなく働き、働きかけられ、その影響が大きくなったり、突然断ち切れたり、絡み合ったり、反発したりしながら、より複雑に組織化され、それでも決して終わることなく、働き、さらに働きかけられーーーー、時とともに個体や組織の繁栄と衰退と滅亡を繰り返しながら、プロセスを多層に積み重ねてゆく。その時間的な諸関係が世界を満たし、遺伝子の指令に従順に奮闘する生物達に、微妙に働きかけ、さりげなく下支えしている。そのように、目的を成就できるものも、そうでないものも、世界の仕組みの根本のところでは、世界そのものに深く配慮されている。そう思える瞬間が、この地球上に満ち溢れている。

 もし、地球がこの宇宙のなかで特別な星だとすれば、それは、この地上に、働き働きかけられる関係を無数に創り出すことによって、他のどんな星より、原生命とでも言うべき宇宙の仕組みを、露わに示していることだろう。そして、この地球上にもっとも新しく現れた組織体である人間の脳内には、それらの仕組みが、幾層にも重なって蓄積されているのではないだろうか。 


風の旅人 (Vol.21(2006))

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