ここ数日、介護現場の取材や、介護関係の人と会うことが続いている。
介護の現場に行くたびに思うのは、なぜ、こんなにも彼らは生き生きと働いているのだろうということだ。
介護という仕事は、人を助ける仕事というより、むしろ逆に、介助の必要な人たちから、”いのち”の輝きをいただいているように客観的に感じられるし、ヘルパーの人たちに話しを聞いても、そのように答える。
現在、職にありつけない若者が多く、その責任は企業の採用方針にあるなどと分析されることもあるが、介護の現場は、人手が足りていない。
ニートやフリーターの人は農業という選択肢があると言う学者の人もいて、それもいい考えのように思うが、介護という選択肢もあるのではないか。
介護だと、今住んでいる生活環境を変えずに、始めることができるし、農業ほど技術的なハードルは高くない。介護にも技術は大事だが、それよりも心の持ち方が大事であり、技術は、心を下支えするものだ。
私は、「風の旅人」で介護現場を紹介したり、介護会社のPR誌を制作したりしているが、介護現場で働く人たちをできるだけ素敵に紹介したいと思っている。といって、敢えて素敵に見せようというのではなく、実際に素敵なのだから、その素敵さを充分に引き出しさえすればいいと考えている。
その素敵さというのは、「他者に対するいたわり」といった慈善的でヒューマニズム精神溢れるものだからという頭でっかちの判断によるものではなく、生き生きと仕事に取り組んでいる姿や、瞳の輝きや、表情の豊かさなどを通して実感として感じられることなのだ。
「介護の現場の悲惨さ」や、「待遇の悪さ」とか、会社や上司の悪口とか、介護をしている相手の悪口とかを蔭で吹聴する後ろ向きで愚痴っぽい話しがインターネットなどで広がることがあると聞く。
そういうことをする人たちの全てが、働いている時も同じ気持ちでいるとはかぎらず、気分が滅入ることがあった時のはけ口として、そういうものを活用していることもあるだろう。
たとえそうでなくても、介護の世界に限らず、どんな世界にも、後ろ向きで愚痴っぽい人はいる。ただ、そうしたネガティブな流れをつくり出そうとする人たちよりも、ポジティブな流れが明確な形となって打ち出されているから、その職種全体として良い印象になっていたりする。
全ての人が同じような気持ちで働くなどというのは不可能であり、人それぞれが持っているエネルギーの大小とか、取り組む姿勢とか、自分の心との向き合い方などによって差が出てしまうことは、やむを得ない。
ただ、介護の場合、私の経験から、ネガティブで暗いイメージの人はとても少なく、元気で明るい人の方が多いように感じられる。
にもかかわらず、ネガティブな人が発するイメージが一人歩きしやすいのは、ありきたりのヒューマニズム精神(自己犠牲的に相手に尽くすという感じのもの)とは異なる方法で、介護の素晴らしさをうまく伝えることができていないからではないかと私は思っている。
それは私だけでなく、私と一緒に介護現場に行く写真家も同じような感想を持っている。
では、なにゆえに、介護現場で働く人が、そんなにも前向きに生き生きとできるのかということなのだが、最近、こういう話しを聞くことができた。
病院に長らく入院している人で、死期が近いと医師が判断するケースがあるが、その場合、本人と家族の希望もあって、自宅で看取りをするために退院し、自宅に戻る。そして、亡くなるまで、在宅介護を行い、ヘルパーが介助をする。
そんな時、家族の希望で、入浴サービスを行うことがある。入浴サービスというのは、自宅の浴槽を使うのではなく、介護専用の浴槽を自宅に持ち込んで、看護師も同行して健康に充分に配慮しながら入浴を行うサービスのことだ。
しかし、いくら健康に注意するといっても、医師の判断で死が近いとされている人だから、入浴中に血圧などがあがって亡くなってしまうかもしれない。しかし、それでもかまわないから入浴をさせたいと家族が願い、家族全員が見守りながら入浴サービスを行うことが、時々あるのだと言う。
なぜ入浴を願うのか。それは、入浴が一番気持ちがいいからだ。人間は衰えてくると、唾液が出ずに味覚がわからなくなったり、流動食しか食べられなくなったり、チューブで栄養補給するのみになったりで、食物の味を味わえず、目もほとんど見えず、耳も聞こえなくなる。つまり、世界を感受するための五官のうち、視覚、味覚、聴覚が損なわれる。しかし、肌感覚は残る。入浴というのは、肌感覚をめいっぱいに刺激する。お湯だけでなく、人の手が身体全体に触れる。生きて世界と通じているという感覚が、肌を通して生々しく得られるのだ。
このような厳粛極まりない入浴サービスを行うと、スタッフのほとんどが感極まって泣いてしまうと言う。といっても現場では泣けないから、事務所に戻ってから、ワンワンと泣いてしまうのだ。
なぜ、感極まって泣いてしまうのか。それは言葉では簡単に説明できることではない。
しかし、その気持ちはとてもよくわかるような気がする。
剥き出しの”いのち”に触れ、ヒリヒリと心が痛むような感覚。その”いのち”の現場に立ち会っているという、畏れと、有り難さが混じったような、かけがえのない気持ち。
さらに、その”いのち”に対して、自分はきっちりと対応できただろうかという、自責の念がこみ上げてくる。
そうした複雑な気持ちが入り交じり、感極まってしまうのだ。
そして不思議にも、病院で死期が近いと言われた人が自宅に戻り、厳粛な入浴を行ったりしていると、生気を少し取り戻し、半年くらい寿命が長くなったりする。
たった半年なのではない。自宅に戻り、家族とともに、それまでの一生と同等の重さのある時間を費やすことになるのだ。
こうした経験を何度も積み重ねると、スタッフの魂は、おそろしく磨かれていく。
卑小な自己に閉じこもって拘泥してグズグズと愚痴っぽく言っていることが、馬鹿馬鹿しくなってくる。
介護の仕事を通して”いのち”の真髄に触れれば、混沌とする社会のなかにあっても新たな視界を得て、ちがう景色が見えてくるのではないかと、介護現場に行く度に、私は思う。
”いのち”のことを、机に向かって本を読んで知ろうと思っても、なかなか本当のことはわからない。100冊の「いのち」の解説書より、介護現場にこそ、「いのち」のエッセンスは漲っている。
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