人間にしかできないこと 〜リリアナ・エレーロのライブ〜

 今日、降りしきる雨のなか、アルゼンチンの哲学者であり国民的歌手リリアーナ・エレーロ+鈴木亜紀のライブに行って来た。

(初来日のリリアナのライブは、まだ日本で見られます→http://tanimon.com.ar/liliana_site/index2.html

 現在発売中の「風の旅人」22号 http://www.kazetabi.com/ で歌手の鈴木亜紀さんをインタビューし、リリアナと鈴木さんの出会いについて書いた。リリアナは、日本ではまったく無名だが、12年前に彼女の歌を聴いた鈴木さんが惚れ込み、アルゼンチンに飛んで直接交渉して日本に連れてきた歌手だ。

 鈴木さんのパワーには本当に驚かされるが、鈴木さんをそこまで夢中にさせたリリアナの歌もまた凄いものがある。

 鈴木さんはリリアナの歌を聴いた時、歌詞はわからなくても、目指しているところが同じだと直観したのだという。そして私も、鈴木さんやリリアナの歌を聴いた時、同じようなことを直観した。また、第22号は伊勢神宮を特集しているが、この号に登場する鈴木さんの実家が焼津の神社であることも、たぶん何かの運命が働いたのだろう。

 ライブの余韻を身体に残したまま帰宅し、テレビをつけると、ニュース23にリリアナが出ていた。ついさっき軽く抱擁して握手したばかりの人がテレビの中にいたので、とても不思議な感じだった。

 番組のなかでは、筑紫哲也さんが、ステレオタイプの質問をする。

 「哲学と音楽がリリアナさんの中でどうしてつながっているのでしょう?」

 リリアナは、「何も不思議なことではありません。哲学も音楽も人間を深めていくものです」と答える。

 さらに筑紫さんの質問は、「今日、アメリカ音楽の影響が強いですが、音楽のグローバリゼーションについて、伝統的な音楽を歌う立場からどう思われますか?」

 アメリカ音楽の影響が、誰に対してどのように強いのか私にはわからないし実感できない。また興味もない。現象を一般化と平均化で括り、弱者と強者の二項対立の構造にして政治的に処理して語るのはあの人の癖だ。音楽そのものを純粋に聞いて質問すればいいのにと思ってしまう。

 その筑紫さんの質問に対するリリアナの返答は、ズバリと鋭かった。

 「世界各国のそれぞれの地域で生きる人々は、それぞれの風土や文化のなかで記憶を育んでいます。歌は、その記憶から言うに言われぬものを汲み上げて歌い上げるものであり、グローバリゼーションというものは、その記憶を無きに等しいものにしてしまいます」

 聞き間違いかもしれないが、確かにそのようなことを言っていた。今日の昼間、同じようなことを考えていたので、自分の考えと混ざってしまったかもしれない。

 でもリリアナの歌はまさしく記憶の底から大切なものを汲み上げ、振り絞るようにして歌い上げるのだ。全身が楽器のようであり、その歌を通した表現力によって、強い「気」が周りに放たれ、空気が一瞬にして変わってしまう。

 最近、ロボットの技術開発が進み、人間のような仕草ができたり学習機能が備わり、人間とロボットの見分けがつかなくなって人間の定義がわからなくなったという話しがある。

 しかし、そうしたロボットの仕草や学習機能などは人間がプログラミングしたものであり、人間の意識が、人間の資質を平均化して一般化して、ロボットに真似させているにすぎない。

 しかし人間には、決して平均化や一般化できない力というものがあるのだ。

 それは、記憶と結びついた表現力だ。記憶は人それぞれであり、その言うに言われぬ思いの強さも、人それぞれである。そして、言うに言われぬ思いが強ければ強いほど、人間は強く表現を求める。表現を通して、言うに言われぬ思いを伝えたいと願えば願うほど、その表現は濃密になる。伝えきれないものを伝えようとする葛藤が、技術の向上やアイデアにもつながるだろう。そして、技術、アイデア、思い、願いが激しく混ざり合った時、その表現は、なぜか空気を変える。その人の記憶の深いところから汲み上げられたものが、他の人の記憶の中の何かと強く呼応するのだ。呼応した瞬間、そこにいる人は、空気が変わったと実感する。

 ロボットもモノゴトを記憶することができるかもしれない。しかし、ロボットは、”言うに言われぬ思い”という感情を持つことができるだろうか? 相手の言うに言われぬ思いを感受できるだろうか? Aという反応に対してB とプログラムされているから、Aになりきれないモゴモゴとした感覚はわからないのではないか。口に出さなくても雰囲気をつかむことや、以心伝心は難しいのではないか。

 言うに言われぬ思いがない状態でも、技術的には表現の真似事はできる。しかし、リリアナや鈴木さんの歌のように魂の力を振り絞るような表現そのものにはならないだろう。また、自分の表現によって変化した空気を瞬時に読みとり、歌をアレンジして、その場の空気との呼応力を増すという芸当も人間にしかできないだろう。歌は楽譜どおり声を出せば歌になるのではなく、歌う人や聴く人の記憶と、その場の空気との関係性が大事なのだ。歌に限らず、どんな表現でもそうだ。あらかじめインプットされたものをなぞるだけでは、表現に力は生まれない。

 自分が親しんできたものに対する愛着、そのなかにはもちろん自分自身も含まれるが、それらが記憶のなかで強い愛着にまで高められているからこそ、言うに言われぬ思いが生じ、それが強ければ強いほど、表現も力を増す。

 リリアナや鈴木さんの歌を聴いていると、ストレートにそのことがわかる。

 ロボットには愛着という感覚はないだろう。だから、ロボットには真の意味で表現はできない。表現できてたまるかという思いが私にはある。

 一般化されていることをなぞるような、自分が行っていることに愛着も何もない活動は、他の人間も真似できるがロボットにもさせることができる。

 しかし、たとえば小説家などで、自分の言葉に強い愛着を持っている人は、自分が行っている表現を他の人やロボットが簡単に真似できる筈がないと思っているだろう。自分の歌を歌っている人もそうだ。

 自分の記憶のなかの何かと呼応して心ふるえるような思いになり、その突き上げるような思いによって何かを行おうとすること。AだからBという反応ではなく、どこにも答えのないところに、自分なりの答えを導こうとすること。

 人間がやるべきことは、そのように人間にしかできないことを、もっと大事にすることだと思う。