固有の魅力と、世界標準

 大分県の国東半島に行ってきた。

 国東半島の付け根に宇佐神宮があるが、この神社が、全国4万あまりの八幡宮の総本山であることを神社知識の乏しい私は知らなかった。

 東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて都にのぼり、造営を支援したことから中央との結びつきを強め,宇佐神宮伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟として崇拝の対象となり繁栄したらしいが、それにしても、なぜこんな所に、これほど大規模のものがあるのか、とても不思議で謎めいている。

 国東半島に際だっている神仏習合の信仰世界は、その宇佐神宮の影響を強く受けているらしい。

 ほんの数ヶ月前、伊勢神宮を訪れ、現在発売中の「風の旅人」の10月号で紹介しているが、それに続く12月号で、宇佐神宮が登場することの不思議さを何と言えばいいのだろう。

 宇佐神宮は、なにやら日本の古代から中世にかけて、大きな影響を与えていたようだ。

 これも何かの縁だろうから、しばらく日本の古代のことや信仰を学習したいと思う。

 それにしても、国東半島は、本当に素晴らしい所だった。

 海に突き出た半島は円い形をしており、中心から四方に向かって幾つもの谷が広がり、その谷ごとに聖域があるのだが、地図で見るとその形は曼陀羅のようだ。

 国東半島は海に近く、海岸線は遠浅で波穏やかな光景が続くが、一歩内陸に入ると、海の傍だと思えないほど、山深い世界になる。その山々の形が素晴らしい。谷によって見える山の形はまるで異なり、ピラミッドのように美しい三角形、お椀をかぶせたような綺麗な半円形、中国の黄山のように幾つも岩山が柱のように林立する場所などがある。その山裾に美しい田んぼが広がり、ちょうど稲刈りの時だったので、所々に刈り取った稲を干しざおに干す「はさがけ」が見られた。その田んぼと山の組合せがつくり出す風景は、谷から異なる谷に入るたびに劇的に変わるが、どの場所もまるで仙境のような霊妙さと平安が織り交ぜになっていた。

 また、ちょうど収穫祭の季節で、奇祭のケベス祭りや、流鏑馬を見ることができた。ケベス祭りのフィナーレでは、燃えさかるたいまつをもった男達が、見物客に向かって突進し、その頭上に火を振りかざす。私は着ている服を焦がしたが、髪の毛を焦がす人もいる。火傷をする人がいても不思議ではない。この安全重視の時代によく残り得たと感心するくらい、おっかない儀式だ。半端なもんじゃない。

 あと、国東半島は、石と信仰が深く結びついている。神社の鳥居は石ばかりだし、石をくり抜いた仏像や神々の彫刻が目白押しだ。また、山の頂上に巨石が祀られており、日本最大とされるストーンサークルまである。

 これだけ霊性の濃密な場所は、日本広しと言えども、そんなにないと思うが、それでも近年になって、道路の拡張工事など開発の手が急速に及んでいる。車がほとんど通らない道に、大きな道路の建設工事がなされ、美しい岩山が無惨に切り刻まれたり、美しい海岸線が意味もなくコンクリートで固められていた。

 地元に暮らす写真家の船尾修さんの話しによると、都会に近いところでは道路工事が忌み嫌われるようになったが、その分、無垢な田舎が狙われているらしい。過疎の著しい地域の人たちを、子供たちの為だからなどというおかしな大義名分で説得し、工事を推進している。

 外の人から見ると、残したい美しい風景であるが、そこに暮らす人は、時代に取り残されているという意識もあるし、農業をやめると土木以外に産業もないこともあり、むしろ地元の人が、工事を望んでいるところもあるのだと言う。

 一つの国といえども、山里、海岸、都市と、生活環境はまるで異なる。山には山の良さや悪さがあり、都市には都市の良さや悪さがある。

 しかし機械化による大量生産と大量消費を基軸にした現代社会では、誰にでも当てはまるように平均化した幸福のイメージを、地方特性に関係なく、各家庭に浸透させようとする力が働く。世界を覆い尽くすグローバリゼーションも、その延長にあるものだろう。多くの人間が購入することで価格が下がり、使い勝手をはじめとする品質の改良も進む。そうした物を入手して快適な生活をすることが幸福だと多くの人が知らず知らず信じこんでいく。また、地方特性に関係なく、同じ素材の同じ形の建造物が造られていく。結果として、世界中の至る所に同じような人工物が溢れ、その不調和な光景に心落ち着かない思いがつのる。

 といって、開発を辞めて昔ながらの風景と生活を残すべきだという考えも、外の人間の甘い感傷にすぎないと思う。

 その地で生きていく人も、より良く生きたいと思い、努力を重ねているわけで、変化への対応もまた大事なことなのだ。

 しかし、もう少し丁寧なやり方をしてもいいのではないかと思う。ブルドーザーで強引に削り、コンクリートで固める。それを開発と主張するのは、詭弁だと思う。

 お金の使い方だって、もう少し有効なことがあるように思う。

 工事のしかたにしても、その決定のしかたにしても、環境への対応にしかたにしても、あまりにも一方的なもののように目に映る。

 もともと日本人は、移ろいゆく季節に応じて喜びを見出してきたように、変化する世界への対応の仕方いかんによって、また気持ちの持ちようによって、幸福感が生じたりそうでなかったりすることを知っていた。

 こうした対応力は、この国の風土によって長年の間に育まれていた。地震や台風をはじめとする凶暴な顔を持ちながら、人間に計り知れない恩恵を与える自然。変化する自然への対応いかんによって報いが変わるが、いくら努力しても、どうにもならないことがある。それが日本の風土に生きることであったのだ。

 そして、畏れ、慎み、慮り、敬しうやまうことを美徳とする日本人のメンタリティは、感覚を研ぎ澄ませて変化の兆しを察し、それにうまく対応しようとする慎重な心がけが反映されたものであった。

 しかし、そうしたデリケートな機微や配慮や慎重さが近年になって急速に失われている。

 一方的で強引で雑でステレオタイプな今日の思考特性や行動特性。奥行きとか厚みとかではなく、いかに目立つかが重要視される今日の文化。行間に漂うものを感知できず、軽薄なキャッチコピーや数に騙されてしまう感受性。わかりにくいことの妙味よりも、わかりやすい簡便さを好む性向。固有の魅力よりも、世界標準を求め、強要する圧力。その結果、私たちの周りに均質で平らに整理された味気ない世界が広がっていく。

 現代民主主義+科学技術+マスコミュニケーション社会は、いったいなぜそういうベクトルのなかでモノゴトが進んでいくのか。

 そのカラクリを知ることが、今一番大事なことのように思う。

 


風の旅人 (Vol.22(2006))

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