人間の底力








「風の旅人」第9号より→ http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/9/image.html



 上野の国立科学博物館で「化け物の文化誌展」と「南方熊楠 −森羅万象の探求者」展、国立博物館で「仏像」の特別展、東京都美術館で「大エルミタージュ展」を見た。

 大エルミタージュ展は、予想したとおり、あまりよくなかった。芸術家個人の展覧会は作風の変遷などがわかって興味深いが、「ルーブル展」とかの美術館展は、所蔵作品の一部だけを持ってくるわけだから、その一部の選択の仕方によっては、とてもつまらなくなってしまう。

 今回のエルミタージュ展のテーマは、案内によると、「人間と自然の調和のとれた統一という、芸術が誕生した瞬間から人の心をゆさぶるテーマ。世界ではじめて、この永遠のテーマにチャレンジした」のだと言う。さらに「巨匠たちの、自然と心の交流の結実」という陳腐な宣伝文句が続く。

 「人間と自然の調和のとれた統一」が芸術の誕生からの永遠のテーマだと私は思わないが、ようするに今回の展示は、主に17、18世紀あたりの、一目で誰にでもわかる自然の具象画と、ベネチアを中心とする都市の具象画がメインになり、モネ、ピカソゴーギャンシスレーマチスなどの絵を一点ずつ、客寄せパンダのように混ぜているだけだった。

 テーマがあまりにも大雑把で、「調和」がテーマだから、自然にしろ都市にしろ、予定調和になっていて、こちらの心を揺さぶってくる恐さのようなものは何もなく、やってきた作品のほとんどが、お金持ちのリビングルームに飾る装飾絵画のようなものばかりだという印象を受けた。その流れのなかに、モネとかゴーギャンとかシスレーが入っているが、毒があるものもないように見え、芸術の毒抜き展示になってしまっている。結果として、毒にも薬にもならない展覧会という感じだ。

 でもこれは私個人の印象で、館内はものすごい混雑だった。「いま甦る巨匠たち400年の記憶」というキャッチと、一点ずつしかないのに、モネ、ゴーギャンルノワールピカソという巨匠?の名がポスターに踊っているからだろう。

 同じ東京都美術館で、独立展、創画展、自由美術展、二紀展など絵画の公募展の展覧会があった。公募展への出品作は巨大で、それが壁面いっぱいに飾られている。よくもまあこれだけ絵を描いているアーティスト?が日本にいるものだと感心するくらい、美術作品が溢れている。

 科学博物館の「化け物の文化誌展」も、河童のミイラなどを見に子供連れの家族が大勢来ていた。「南方熊楠 −森羅万象の探求者」展→http://www.kahaku.go.jp/event/2006/10minakata/index.htmlの方はガラガラだったが、展覧会の内容としては、こちらの方が充実しているかもしれない。南方熊楠のメモとか論文が展示されていたが、それらを見るだけでこの人の「自然探究」に対する凄みというか、信念と情熱には圧倒される。「頭の良い人だと思われるための・・・・・」という類の陳腐な本がすぐにベストセラーになってしまう現在は、「知」や「教養」が軽いファッションになっていて、何か大切なことが骨抜きになっている。

 知的探究や芸術というのは、本来、私たちが接する自然や人間社会に対する視線を根底から揺り動かすような大きな可能性を持つ行為であり、そういうことに自覚的に根気よく情熱的に取り組んでいる人が、本当の知的探究者であり芸術家なのだと私は思う。

 東京国立博物館の仏像展→ http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=3460に集められた奈良時代平安時代の木彫りの仏像からは、南方熊楠のノートと同じような凄みと緊張感を感じた。

 どの仏像からも、作り手の気迫のようなものが強く迫ってくる。

 仏像における気迫の源は、おそらく信仰にあり、現代人は古代人と同じように神や仏を信じることができないからか、彫刻や絵画から気迫が立ち上るものはあまりないし、そういう作り方が歓迎されていないように思う。

 もちろん現代のアーティストも精魂込めてつくっているから、作品からはエネルギーが発せられているのだが、「信じるものの強み」から生じる気迫が漂う作品は、とても少ない。海外で高い評価を受けている云々の類のものは、それとは正反対に、「病」「奇怪」「キッチュ」など、「何も信じられない世のなかの象徴」みたいなものが多い。でも、そんなこと、わざわざアートに示してもらわなくても、既にみんなの共通認識なのだけど・・・。

 「海外で高い評価!!」という言葉に日本人はとても弱く、もうそれだけで日本のマスコミは大々的に取り上げたりする。

 しかし欧米人は、彼らの精神生活と物質生活のバランスは、日本人に比べてはるかに安定しており、その頑固までの基盤のうえに立って、外のものを面白可笑しく楽しんでいるという程度のことが多い。その程度のことなのに、それを外人に誉められるくらいで「日本が世界に誇るものだ!」などと浅はかに喜んでいると、日本文化は海外の無意識の陰謀に乗せられるように、どんどんと地盤沈下していってしまうのではないか。

 海外に誉められるだけですぐ喜ぶということじたいが、自らの精神生活と物質生活の不安定さを露わに示しているように思う。

 今この瞬間だけ持ち上げられて、数十年後にはまったく忘れ去られるであろうものはどうでもよく、今回、仏像展に展示されている国宝の菩薩半跏像(伝如意輪観音)をはじめ、木彫りの彫刻からは、たとえばミケランジェロピエタと同じような凄みとか気迫を感じ、それがあるからこそ、千年を超える歳月に耐えうるのだろうと思う。そういうものこそ、本当の意味で、日本が世界に誇るものなのだろう。エルミタージュ展で展示されている絵画より、よほど素晴らしい。

 現代は、神を失っているから、古代の仏像制作のようなテンションは無理で、そうした信心を持ち得ない現状を伝える作品の方が貴重だと言う専門家がいるかもしれない。

 しかし、それは、中世から近代にかけて、一神教の神にすがり頼ることができなくなった欧米のインテリの発想であり、宗教や文化的風土がまったく異なるのに、そのことを理解できない日本の一部のインテリが、欧米崇拝の延長として陥っている思考の硬直化だろう。

 南方熊楠のノートには、他には白川静先生の仕事もそうだが、古代の仏像と同じような凄みとか気迫を感じる。この人たちの視界の広大さ、行っていることの精緻さ、独創性は、「一神教の神なき時代」に生きながらも、奈良時代の仏像制作者達のように、「信心の強さ」から生まれているのではないだろうか。

 「神」や「仏」など記号的な言葉に成り下がったものではなく、森羅万象を司る何ものかの巨大な力、エネルギーのようなものに対して、直感的に強く信じるものがあるからこそ、その方向に向かって全身全霊を惜しみなく注げているのではないかという気がするのだ。

 「芸術」、「学問」、「神」、「仏」などという言葉は、もはやただの記号でしかない。

 そうした分類や分析や分野は、もはやどうでもよい。

 人間の行っている何ものかを見て、心から頼もしく、誇らしく感じられるものこそが、かけがえない。

 白川先生や南方熊楠の探究は、半人前の私には到底その全貌はわからないし、一木彫りの素晴らしい仏像も、真似をしようとしてできるものではない。しかし、それらの人間の底力は、同じ人間として、心から頼もしく、誇らしく、人間への信頼を取り戻す力に満ちている。わかるわからないではなく、そういうもののオーラに触れることで、少しでも自分を前向きにすることが大事なのだろう。



風の旅人 (Vol.22(2006))

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