敢えて自殺について(1)

 子供が遺書を残して自殺する。テレビや新聞が大騒ぎする。報道機関が学校まで押し掛け、生徒にマイクを向ける。いじめがあったかどうか、執拗に聞く。学校に対して、いじめがあったことを認めろと迫る。仲間の1人が自殺して心理的にダメージを受けている生徒達に、さらに「犯人探し」のような雰囲気をつくりだす。

 こうした報道じたいが、連鎖反応的に、似たような行動を生み出すだしてしまう。

 「邪魔者は消えてなくなります」と殊勝な言葉を残すことで自殺が美化されてしまう。そういう報道を目にする者は、そういう言葉によって、学校やいじめを行った人に社会的な制裁を与えることができることを、連日の大騒ぎで知ってしまうだろう。

 「いじめ」の無い環境を目指すことより、「いじめ」を乗り超える力とか耐性を獲得することの方が、もっと大事なことではないか。

 人によって困難の感じ方や受け止め方はそれぞれなのだが、本人が「いじめ」と感じるだけで、それを全て「いじめ」だとみなして排除していくとなると、この世は、必要以上に他人との接触に神経質になって、当たり障りのない関係で埋め尽くされていくのではないだろうか。そのように全ての人間関係から軋轢とか葛藤を無くしてしまおうとする流れの方が、私には不気味に感じられる。

 もしかしたら、ほとんどの人は、これまでの人生において、いじめられた記憶を持っているのではないだろうか。一度もそうした経験がないという幸福な人は、意外と少ないのではないだろうか。

 自分がいじめられていた、と思いすごく悩んでいた時、周りの人は全然そういう感覚を持っていなかったということは多いように思う。

 私も小学校の時、3度学校を変わったから、変わるたびに仲間はずれにされたり、「つよしという名前だから強いんだろう」と言われながら、毎日の帰り道、他の生徒のランドセルを5つも6つも持たされて召使いのようにされていた時期もあった。それで屈辱を感じて泣いたりすると、目安箱というものに「泣き虫の佐伯」と投書され、生徒が運営するホームルームで、クラス内の問題として、「すぐに泣く佐伯をどうするか」などと議題にされ、屈辱と恥ずかしさが何倍にもなった。そういう場合、先生は、「佐伯くん、すぐに泣くの、男の子なのに」みたいな無神経な言い方をした。

 でもどうなんだろう。このような経験は、わりと多くの人が持っているのではないだろうか。自分では意識せずに、いじめする側にまわっているということもあるかもしれない。

 担任が率先していじめをしていた、というニュースを聞くと、確かにやるせないし、腹立たしい気持ちにもなる。しかし、今そういう先生が突然現れたわけではなく、私たちの子供の頃だって、本当にくだらない人間が先生になっていて、あからさまに贔屓したり、特定の生徒を侮辱するヤツもいた。こんなヤツに評価されるなんて、まっぴらだとよく思った。

 しかし、学校の先生だからといって特別に立派な人がなるわけではない。普通に試験に受かればなれるわけで、例えば会社などで今自分たちの周りを見渡した時に、厭なヤツだなあと思うヤツが、会社勤めではなく学校の先生になっていたとしても不思議ではないわけだ。また、自分自身も、周りからそう思われているかもしれない。

 清く正しく聖人のような人間だけで人間社会は構成されているわけではなく、みんないろいろなところで不完全な状態のまま、人間関係に軋轢や葛藤を感じながら、なんとかバランスを保ちながら生きているのではないかと思う。

 それが人間社会であって、学校だからといって特別なものでなければならないと考えすぎるのはどうなんだろうと私は思う。

 「いじめ」を正当化するつもりではないけれど、悩ましい関係をつくり出すものを全てよくないものだと排除する大合唱の方が、なんとなく不気味なのだ。

 いろいろ問題あるのはお互い様なのだけど、お互い様という感覚がなくなって、自分の側の被害感覚ばかりが拡大する。そして、その状態を切り抜けるためには決められた一本道を不可避的に歩むしかないと信じる、一種の自己催眠、自家中毒になる。後になってみれば、不可避どころか選択肢がいくつも見えるけれど、そういう冷静な見方は後知恵になる。

 「虫刺されの箇所が大きく感じられて全身の注意を集めるように、局所的な不本意事態が国家のありうべかざる重大事態であるかのように思い、ヒステリックな過剰反応のなかで局面を打開しようとして冷静な選択判断を無くし、そうするしかないのだと信じきることと、自らの被害者性を強調することが、戦争の心理的準備である」というようなことを、中井久夫さんが、「戦争と平和についての観察」で書いている。

 自殺と戦争を一緒にすると叱られるが、心理的に、とてもよく似ているような気もする。

 私は、自殺する人の苦しみに同情的に、可愛そう可愛そうと言う気にはなれない。

 どんなに苦しい局面であったにせよ、なんで死ぬんだ、馬鹿野郎、死ぬ気になればなんだってできるし、いっそ死んだつもりになって、もう一つまったく別の人生を好き勝手に生きて、それでもダメな時に死ねばいいじゃあないか、という気持ちの方が強い。

 

 今回の自殺の事件で、このような記事があった。

「(自殺した少女の)家族によると、28日の訪問の際、学年主任は4人が冷たい視線や無視行為、強いパスなどで少女を苦しめていたと4人の父母が認めたことを明らかにしていた。家族はこの学校側とのやり取りをビデオにも収めている。」

 「冷たい視線や無視行為、強いパスなどによって、人を1人殺したのだ!!」ということを証明するために、その証言をビデオに撮る。

 この4人の生徒は、自分のなかで痛手を負うだけでなく、人を死に追いやったものとして記録される。こういうのは、あまりにも酷いと思う。これも一種の「いじめ」だろう。

 人を苦しめたのだから、しかたがないと思っているのかもしれないが、実は、「いじめ」をする側は、何か別の被害者意識を持っていて、その被害者意識を、相手にぶつけていることがあるのだ。

 私たちの社会は、被害者意識に敏感になっている。なぜ自分ばかりそういう目にあわなければならないのだ、そんな理不尽なことは許せないと思いやすくなっている。そういう心理は、簡単に攻撃に転化しやすい。攻撃していても、自分の被害者感覚が強いから、攻撃しているという自覚はない。ホームドラマなどの夫婦喧嘩などでも、自分の方がいろいろ苦労して悩みも深いと信じこんでいると、平気で相手をなじることができてしまう。その場合も、相手をなじって攻撃しているという自覚はなく、自分の方が可愛そうだと思い込んでいる。

 「いじめ」というのも、もしかしたら、過剰な被害者意識が、攻撃へと転化することで生じている場合があるかもしれない。

 「いじめ」を無くしましょうと大きな声で唱えるだけだと、いじめが無い状態を当たり前のものとして保証しようとすることでもあるから、ちょっとしたがあっても、「自分はいじめられた」と、被害者感覚がより過敏になるかもしれない。

 被害者感覚を過敏にすることよりも、被害者感覚を薄めたり、悔しさとか悲しさを何か別のエネルギーに変える努力の大切さを教えなければならないのではないだろうか。

 いじめがあることじたいを不正義の塊のように責め立て、「いじめがあったのか、無かった」ということばかり議論し、責任の所在探しをしてもしかたがないように思う。

 学校側や教師に、「無視をすること」や「バカにして笑うこと」が完全に無いように管理させることは、学校に生徒個人の自由な感覚を奪い全体主義的な統制権を与えることにならないだろうか。

 学校というのは、不完全さが至るところに露出していても、生徒自身が激しく葛藤し苦しみながら自分なりにバランスをとる知恵を獲得し、社会で生きていくための耐性を身につける場でもあるのだと思う。

 学校を無菌状態にして何とか無事に学生時代をやり過ごすことができても、本当の困難や嫌がらせは、社会のなかで辟易するほど、直面することになるのだから。

 そして社会や会社からそれを一掃することを求めることは、企業や政府に過剰な管理統制権を与えることと等しくなる。

 そういう社会を望むのか、人間同士、良いことも厭なこともある状態のなかで、それぞれが折り合いをつけていく知恵を身につけて、巧みにバランスを取りながら生きていける社会を望むのかだ。

 学校や企業や政府に管理責任を求め、その管理に守られることよりも、自立した個人として逞しく生きていけるように、個人も家族も努力した方がいいように思う。管理に守られるということは、その引き替えに、自由を差し出すことを義務づけられるだろうから。

 


風の旅人 (Vol.22(2006))

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