マラソンランナーは、勝利する喜びよりも、完走することを大事にしている。
それはなぜだろう。
途中で消耗しきって何度も何度も辞めようと思いながら、ふらふらになっても、走り続けて完走しようとする。
途中に急な坂もあるし、強い向かい風もある。人に足を踏まれて転ぶ人もいる。でも、走ることを辞めない。転んでも起きあがって、走り続けようとする。
身体中のエネルギーを使い果たして、気力も何もない状態でも、走り続けようとする。
そういう姿を見ると、胸を締め付けれる。感動で鳥肌が立つ。なかには、苦痛に顔を歪めて棄権をする人もいる。本人にしかわからない苦痛とかがあるのだろう。苦痛があるのだろうということは想像できるが、それがどの程度のものか、本人にしかわからない。人が無理してわからなければならない問題でもない。坂がきつかったからだとか、気温が高すぎたからだとか、いろいろ言ってもはじまらない。
走るのを辞めた人よりも、今現在、苦痛に顔を歪めながら走り続けている人の方に、自然に目はいくものだ。
事情に関係なく、ふらふらになって走り続けている人を見ると、心から感動する。
そういう人は、本人は意識していなくても、その行為だけで周りの人に武者震いするような勇気を与えている。生きる力を与えている。
人は何のために生きているのか?と、言葉で解答を導き出す必要なんかない。人が、他人のためではなく自分のために完走しようとする姿が人に勇気を与えるという事実が、その答えの方向を指し示している。
その勇気は、いったい何のためのものなのか? 人は、いったいなぜ勇気が必要なのか?
いじめをする人も、いじめを受けて自殺する人も、いじめを見て見ぬ振りをする人も、いじめを隠蔽する人も、自殺の小さなサインを受け取りながら、もう少し踏み込んだ対応ができなかった肉親も、もしかしたら一番欠けていたものは、勇気だったのではないか。
本当に大切なことより、目の前にある小さなことを守ろうとして、萎縮してしまったからではないか。
守ろうとした小さなことは、いったい何なのか? そして、その小さなことよりも大切なことは、いったい何なのか?
小さなことは、「今」の自分だろう。そして、その小さなことよりも大切なことは、「未来」の自分だろうと私は思う。
マラソンランナーの場合、「今」というのは、足が痛くて胸が苦しくて、走るのを辞めようと思う自分だ。そして、「未来」というのは、完走した時の自分だ。
マラソンランナーは、完走の喜びを知っている。その喜びは、自分が次のステップに進めそうな納得感を得ることだと思う。途中で棄権したら、また振り出しに戻ってしまう。振り出しに戻ることの繰り返しが、人間にとって、実はもっとも苦痛なことなのだ。
「今」この瞬間の「楽」を安易に選択して棄権をすることは、棄権の後に、重苦しい空虚感や徒労感を全身で背負うことになる。「今」の苦しみよりも、未来のその苦しみの方が耐え難いことがわかっているから、自分を鼓舞して走り続け、完走しようとする。
そして、自分を鼓舞する時に、勇気がとても必要になる。勇気は、完走のエネルギーになり、完走することによって、「今」の自分が一皮剥けて、次に行ける。次の自分に「命」を手渡すために、勇気が必要なのだ。
「次」の自分が、「今」の自分を振り返った時に、恥ずかしい「今」の自分でいたくないという気持ちは、多かれ少なかれ、人間なら誰しも自然にもっている感覚ではないだろうか。
「次」の自分が、卑小で虚無感や徒労感でいっぱいの、どんより曇った存在になってしまわないための「今」でありたいという気持ちは、誰しも自然にもっている感覚ではないだろうか。
そういう気持ちを大事にするためには、勇気が必要なのだ。勇気をパワーアップさせるための充電が必要なのだ。
大人たちは、坂道を平らにしようとしたり、風の影響を受けない室内競技場にしたり、走りやすいコースにして人生の棄権を防ぐことに一生懸命だ。
人生の棄権は、マラソンと違って、やり直しがきかないから、よけいに慎重になり、小さな「今」しか見えなくなってしまう。
しかし、走りやすいことが優先されると、完走の喜びも弱くなる。完走の喜びが弱くなると、自分が次のステップに行けるという手応えも弱くなる。さらに、自分の勇気も育まれにくくなる。
勇気が育まれなくなると、見て見ぬ振りや、隠蔽や、周りに合わせて(自分がいじめられることを怖れて)人をいじめるという連鎖も、無くならないだろう。
勇気がないと自分の走りを続けることが難しくなるから、自分の心とは別に周りに同化したり、途中棄権も増える。
「勇気」を育むなどという言葉を使うと、太平洋戦争時の特攻隊など敵や死を怖れぬ気持ちと混同して、軍国化の一つの要因とみなすインテリがいる。
しかし、それは違う。自分を捨てることは勇気でも何でもない。自分を捨てるから周りに同化しやすくなる。同化することの方が、異物であり続けることより簡単であり、簡単なことをすることが勇気ある行為の筈がない。
異物であり続けることは、苦痛であり、それを敢えて引き受けることの方が、勇気がいる。マラソンランラーが走り続けて苦しい時というのは、自分の走るという行為が異物のように、その環境において激しい抵抗を生じているからだ。
立ち止まって楽になろうとするのは、心身を環境に同化させたいからだ。同化することに、勇気はいらない。
山登りなどで、引き返す勇気を言われることがあるが、それは棄権を意味するのではなく、山頂の征服そのものを目的化する「欲」を断ち切る勇気を指しているのだろう。その方が難しい選択だから、勇気が必要なのだ。
どんな場合でもそうで、難しい選択を引き受けることが勇気だ。敵艦に突っ込むことが、常に勇気ある行為とは言えない。
自殺することも同じで、勇気があるからではなく、「楽」を選ぶ気持ちと、その行為じたいに後ろめたさを感じない気持ちと、もしかしたら、その棄権行為を周りの人がマラソンの完走者に対するように、「頑張ったね」とねぎらってくれるのではないかという錯覚などが入り交じり、それに対して、「今」の自分ではなく「次」の自分のために困難を引き受けて生きていくぞという勇気が大きく下回った時、なされるのではないか。
自殺を防ぐために必要なものは、文部省主導の「いじめ」無くし(統計的な隠し)ではなく、異物であっても生きていけるのだという覚悟と勇気だ。社会的には、そういう雰囲気作りこそが大事だ。
他人に安易に同情したり攻撃することがはびこっているが、それは裏を返せば、一つのことに簡単に同化する心情であり、異物を異物として受け入れられない感覚と通じてはいないか。同じ感覚を共有する人とは仲良しになるが、少しでも違う人に対しては、ヒステリックに許せなくなる。その仲良しが集まって特定の人に向けて同じ攻撃をすると、それは、「いじめ」になる。ブログなどで時折起こる「炎上」もまたそういうものだろう。
「人は人、自分は自分」と割り切り、常に自分自身を振り返りながら努力している人は、異物になる経験を積み重ねることになる。それゆえに人の痛みがわかり、フェアープレーを発揮できるのではないだろうか。
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