幼稚園の父親参観? 子供の叱り方など

 参観で訪れた幼稚園には、可愛いウサギや鶏が何匹もいて、子供が交代で面倒をみていた。また、もう少し経ったら、落ち葉を集めて焚き火をして、焼き芋を作るのだと言う。

現代社会は、燃え盛る火を身近に見る機会も、危険だからという理由で、きわめて稀になっている。

 しかし、燃える火、流れる水、ミミズなどの生き物が出てくる土に接し、その不可思議さを実感することこそが本当の意味で自然に触れることであり、管理と整備の行き届いた公園の芝生で遊ぶことは、バーチャルな自然体験の一タイプに過ぎないような気がする。

 参観の後、父親が集まって話し合いの場がもたれた。議案となったのは、「子供の叱り方」で、いろいろな意見が出た。

 幼稚園の方針としては、先生がモノゴトを決めつけず、できるだけ子供に考えさせるように誘導することが大切にされているということで、具体例を示しながら、説明していた。

 その方法は非常にスマートで賢明なやり方のように聞こえ、多くの教育関係者が支持する内容かもしれない。話し合いに参加していた多くの父親もまた、その方法に感謝していた。

 しかし、私は、先生方の熱心さは有り難いと思ったが、いくばくかの違和感も感じた。

 だだをこねていたり、甘えているときは、理屈抜きに、「駄目なものは駄目!」でいいと私は思っている。世界には自分の思うようにならないことがあることを強く肌で感じることは子供にとって大事なのではないか。子供の小さな頭で、世界の全てを理解・納得する必要などないだろう。

 先生の誘導などによって子供ながらに考えたり話し合ったりして、その結果、モノゴトを結論付けて、わかったようなつもりになってしまうことに私は懸念を覚える。

 「こうすればいいんだよ」、「ああすればいいんだよ」と、幼いながら口達者な子は自分の意見を言う。そして、そういう子が話をリードしていく。

 しかし、「こうすればいいんだよ」と簡単に言える子は、頭がよく働いているとは限らず、複雑な機微に鈍感だからこそ、明言できるケースも多い。周りのことに敏感で言うに言われぬ気持ちをいっぱいに抱えている子は、葛藤が大きく、自分の考えをあまりはっきりと言えないかもしれない。もしかしたら、そういう子供の方が、頭がよく働いているかもしれない。

 だから、幼い時に自分の考えをはっきり主張する子供が、成長後も同じように自分をはっきりと打ち出せるかというとそうとは限らない。周りのことを気にするようになり葛藤を知り始めた途端、自分の意見を述べられなくなってしまうケースも多いのだ。

 自分の考えを口達者に述べることより、葛藤を抱えながら、モゴモゴと悩むくらいが、子供にとっては、ちょうど良いのではないかと私は思っている。子供ならではの葛藤こそが、自分の言葉を磨く土壌になるのだから。

 自分の子供には、現時点でいろいろと意見を言う力よりも、物事を自分ごとに引き寄せて、言うに言われぬ思いを厚く育んでくれる方が私は嬉しい。その方が、後々の潜在的な力になるような気がする。

 葛藤がなく言いやすい状態で言いたいことを言う力よりも、葛藤を抱えながら、言いにくい状況で敢えて言いにくいことを言う力こそが、本当の意味で、言語力だと思う。幼い子供に、その言語力を期待するのではなく、モゴモゴと悩みながら内面を耕し、周りのことにデリケートに感応する感受性を育んで将来に備えるくらいでいいのではないかと私は思っている。

 あと、参観で、粘土でうさぎを作る授業があった。

 そうした場合でも、作業の速い子と遅い子がいるが、速くできるかどうか、また決められた時間内にできるかどうかを重視していない学習内容は嬉しく感じた。

 現代社会は、とかく速さが優先されるが、速くやろうとして間に合わせで作業をすませたり、あまり深く考えず、とりあえず形だけ整えればいいというスタンスも目立つ。結果として、できあがるものが無味乾燥になるし、作る側も、あまり達成感が得られない。

 私の子供は、器用にさっさと速くやるタイプではないが、人が簡単に助け舟を出すのを嫌い、未熟なりにあれこれ自分で考えているところがあり、私としては、速さを競うよりも、そうした地道で丁寧な取り組み方を大切に成長してほしいと願っている。

 今のように変化の激しい時代においては、子に限らず、親もまた絶対に正しい答えなど無いに等しい。だから子供の教育に関しては、常に試行錯誤しながら、子供と真剣に向き合い、自分の言葉で語りかけていくしか方法はないだろう。

 仕事をしている父親の場合、子供と接する時間はかぎられていて当然で、それを長くしないといけないと主張する評論家がいるが、もし本当にそうなら、北国の出稼ぎ家族はダメということになる。しかし実際には、そうした家族の方が絆が強いケースも多い。それは、子供たちが、自分の父親が家族のために働いていることを知っているからだ。子供と接する時間の長さではなく、子供のために父親が頑張っていることを子供が感じていることが大事で、父親以外の人は、そのことをよく考えて子供に接する必要があるのではないだろうか。

 間違っても父親のいないところで、子供にむかって父親のことをバカにするような発言は控えるべきだ。

 いずれにしろ、時間の長さ、速さ、量など数字で表されることよりも、万事は、その内容こそが問われるのであって、内容の良し悪しを判断する感性が失われているから、数字やマニュアルを頼ることになる。

 現在社会には、知ったかぶりをする評論家をはじめ様々な雑音が溢れていて、内容の良し悪しを判断する感性が麻痺させられやすい。

 だから、大人も子供も、まずはその感性を取り戻すための環境を整えることに注意を払わなければならないのだろう。