そらぞらしさの理由

 現在、「風の旅人」の第25号(2007年4月1日発行)の構想を練っている。この号から5年目に入るのだが、これまでのテーマ、「世界と人間のあいだ」から、「われらの時代」というテーマに変えて作っていきたいと思っている。

 これを機に、表紙を写真から再び絵に戻すことに決めている。その依頼は、既に大竹伸郎さんにしている。

 今、第25号の特集ページを組むために、130年に渡る一家族の膨大な写真資料の前で途方に暮れている。写真が発明された頃の古い写真というのは色々な機会に見ることがあって、それはそれで興味深いが、今回の趣旨は少し違う。同じ家族の営みが、時代を超えて連続しているのだ。しかも、6代にわたる写真館の写真だから、技術も一流で、現在のプリントに劣るどころか、勝っている部分も多い。

 現代人は、時代が下ればクオリティが進化するように信じているが、それは錯覚にすぎない。技術進化がもたらしたものは、クオリティのアップではなく、利便性と、数や種類の豊富さだ。一つ一つの質は、むしろ劣化している。カメラのボディ、レンズ、ファインダーガラス、フィルムの材質などは、大量生産に対応するために明らかに品質劣化が起こっている。

 ディティールまできっちりと写り込んだ高品質の写真が、明治〜昭和にかけての同一家族を連綿と捉えているのを見ていると、古い新しいという分別を超えて、言うに言われぬ気分になる。この気分はいったい何に起因するものなのかを探る日が続いている。

 また、同じ写真館が撮った近所の家族の写真なども、今回の資料のなかに多数あるのだが、戦後、高度経済成長の頃から、写真の有り様が、にわかに空々しくなっていることが感じられる。

 明治〜大正、昭和の初めにかけて撮られた写真は、そこに写っている生活の断片が、被写体の人たちの人生と密接につながっているという感覚が伝わってくる。しかし、高度経済成長以降の写真は、写真に写っている生活と、被写体の人生が遊離しているという印象を受ける。人生と生活は、それぞれ別のものとして存在しているという感じなのだ。

 この感覚について、もう少し説明すると、「人生」というのは、その人の内面の問題であり、「生活」というのは、それぞれの人生や時代環境が反映されて目に見える形となって現れる営みだと私は考えている。

 どんな職業に就いているか、何をやっているかということよりも、それらを通して、その人自身が満たされているかどうか、そこに至るまでのことをどう受け止めているか、将来のことで何を求めているか、といった内面の揺れ動きのようなものの軌跡が「人生」だと私は思うのだが、そのトータルの感情や思いの凝縮した空気が、かつては日常の営みと重なっているのだが、高度経済成長の頃を境に、そうでなくなってきているのだ。

 野町和嘉さんが撮る写真のように、秘境・辺境地域の人々は、生活と人生が一体化している。その一体化したものの決定的な瞬間を捉える鋭い目によって、最高の写真がつくり出される。気分を演出するための賢しらな技巧は、むしろ弊害になる。

 しかし、同じ手法で、生活と人生が分離してしまった現代の日本人を撮ることはできないのだろう。

 現代人は、生活の断片をスナップ写真として膨大に写しとる。

 そして、写真表現を試みる人たちは、一部の鈍感な人を除いて、そのようなスナップに本当の人生(思いや感情の軌跡)が写っていないことを自覚している。それで彼らは、生活の断片を見えないようにボカして心象風景のようなものを撮り、その時々の”気分”を表そうとする。

 そうすることで、生活と人生が遊離した悲哀や、それを何とか結びつけようとする切実さは伝わるかもしれない。

 でも生活と人生が遊離したままであることに変わりない。

 ならば、なにゆえに、今日の日本人の目に見えて現れる生活が、かくもそらぞらしいものになっているのか、目に見えて現れるものと内面との分離が著しくなっているのか、という問題をまず考えなければならないだろう。

 それについて私が思うことは、現代社会においては、目に見えて現れる”生活”は、虚構もしくは生活の一部にすぎず、生活に関わる大半は別のところにある。その本当の”生活”は、多くの人間の目に見えにくいところに置かれている、ということだ。

 具体的に言うと、流通がそうだし、インフラがそうだ。生産過程を見ることなく、できあがった現物だけを私たちは見ている。電話、テレビ、ガス、電気など生活を支えるほとんど全てのインフラについて、私たちはほとんど意識することなく生活している。

 さらに教育においても、記録、数字、公式、単語、年号など目に見えて形になっている既成事実を覚えることが最優先され、その背後のモノゴトに対する想像力を育てることが、ないがしろにされている。

 今朝の新聞の事件にかぎっても、たとえば、有名タレントやスポーツ選手が広告やパンフレットに起用されているというだけで信用してしまったという近未来通信への投資問題や、小学校教諭が、事件や事故で亡くなった子供の写真を「三度の飯より子ども死体」と名乗ってホームページに転載したことについて、教育委員会が人権問題として重大という認識もなく肝心のホームページの内容を確認することもなく11月末まで勤務を続けさせていたことなど、表層的なことだけを見て、そこから先のことについて意識が断絶してしまった結果として生じている事件が多いという印象を受ける。

 話は変わるが、最近、ヒューマニズムとスピルチュアルを融合させたような映像作品の上映会を見る機会があったのだが、それは、ロマンチックな音楽をバックにしたナレーションとインタビューが延々と続き、その言葉の説得力を増すために映像素材をつなぎ合わせるという類のものだった。

 ナレーションが止めどなく語り続けることは、宗教の経典のような内容で、そこに科学的に採集(人間に都合よく解釈)した宇宙や自然の映像や音などを重ね合わせて、説得力を強める。ナレーションが説明することは、たとえば環境問題や人と人や世界との関係性の大切さなど「善」なることであるから、とても反論しにくい。そして、その「言葉」に対して、ほとんどの観客は、素直に頷いている。

 しかし、私は天の邪鬼だから、こういうものに素直に頷けない。その理由は、耳にうるさいほどのナレーションが、そこに展開する映像を直視することを邪魔するからだ。目で見る映像や、奏でられる音楽が、本当に美しく素晴らしいものかどうか、私は直に映像を見て音楽を聴いて判断したい。そのようにして私が判断するかぎり、その映像表現の映像や音楽は、たいして美しくも素晴らしくもなかった。気分はそれなりに出ているが、写っているもの自体の美しさではなく、雰囲気でごまかしている。その雰囲気づくりのために、センチメンタルな音楽とくどいナレーションで強引に誘導し、そこにいる人々を丸め込んでいるように感じられたのだ。

 エピソードというものは、そこに見えているものの奥行きを示すために必要な場合もあるが、エピソードばかりを聞いて、そこにあるものをしっかりと見ずに、わかったつもりになってしまうことが多い。

 そして、”権威”もまたエピソードと同様の働きがある。文章、写真、絵画などにおいて、それ自体の凄さではなく、プロフィール、受賞歴、過去の著書などが膨大に列挙して権威づけを行い、その権威の力によって説得力を高めようとするものが多い。

 上に述べた映像会では、高名な科学者や、皇室関係者までが説得力向上のために、利用されていた。

 こうした手法は、今日の広告文化と、それに支えられたテレビや新聞・雑誌文化に端的に現れている。

 本筋がたいしたものでないのに、その周辺事項ばかりが膨れあがる。一つ一つのケースにおいて、人々はそれに気付いていない。だから、それらが野放しになって、世に溢れ、結果として、その周辺事項ばかりに囲まれて私たちは生きる羽目になる。

 一つ一つに気付かないけれど、それが束になってつくり出される空気こそが、現代社会に蔓延する”そらぞらしさ”の大きな理由だ。

 映像が流れれば、映像そのものを見ること。音楽が流れれば、音楽そのものを聞くこと。文章を読む時は、書き手の肩書きなど無関係に文章そのものを読むこと。人と会って話す時は、先入観を持たず、表情や話し方やその内容こそを大切にすること。そうした地道な訓練を重ねていかなければ、大がかりな仕掛けにすぐに惑わされて自分を失ってしまう。自分を失っている自分に対しても、鈍感になってしまう。

 その先にあるのは、自分であって自分でないような自分に対する空々しい感覚だけかもしれない。