この瞬間の選択で決まるのではなく

 何かをやる場合の”思い”というのは最初から強くあるものではなく、育っていくものだという気が私はする。

 最初から、「自分のやりたいこと」というのが強くあって、それを実現するために行動するというより、動いているうちに、「自分のやりたいこと」が輪郭付けられていくのではないかと思う。

 そして、「自分のやりたいこと」というのは、「写真家」とか「漫才師」とか「芸能人」などカテゴリーだけを指す人もいれば、「この時代に、人間としてどう生きるか」という生き方のスタンスを重視している人もいるだろう。

 「この時代」には、いろいろな困難があり、困難がなければ、人間としてどう生きるか、などという問いを自分にたてる必要もない。

 人間として生きずらいこの時代に、そもそも人間として生きるということがどういうことなのかよくわからない混沌たるこの時代に、自分はどう生きるか、という試行錯誤と、葛藤と軋轢の積み重ねの結果として、たまたま、写真家になったり、作家になっていく人と、最初から写真家とか作家になることを目的化する人がいる。

 テレビなどで、その分野の成功者を紹介する場合、絵を描いたり物語を書くことが大好きな子供だったんですねえとか、その道を歩むことになった出会いやきっかけがドラマチックに語られ、「やりたいことをやることが大事だ」という、成功者の立場だから何とでも言えることが強調されることが多い。そのような後付けのエピソードで、やりたいことが明確になく試行錯誤をしている人たちを焦らせたり、やりたいことが明確にない生を価値のないもののように感じさせたりする。

 しかし私が思うに、この複雑怪奇な世界のなかで、「私はこれをやりたいんです」と世界の一部を切り取って明確に答えられることの方が、世界の様々なことに鈍感であったり、世界を自分に都合良く解釈しているだけなのではないか。世界の隅々まで真摯に向き合おうと思えば、そう簡単に決めることなどできないのではないか。

 選択というのは、選択されないものを切り捨てることだ。選択したものを見てその人を判断するのではなく、その人が何を切り捨てたか、もしくは何に対して無関心なのか、によって判断した方がいいかもしれない。

 世界も人生も、すっきりと割り切れるものではなく、どっちつかずで、ねじれていて、そうした状態の中で継続的に引き裂かれ続けることは苦しい。むしろ、何かを固定的に選んでしまった方が、楽に落ち着く。

 とはいえ、何かを選択したからといって、理想が実現するわけでもないし、選択しないからといって、どうなるというものでもない。選択しなければ何も始まらないというのは事実だろうが、その選択が、今この瞬間でなければならないという理由はどこにもない。

 葛藤が長く深ければ深いほど、その上での選択は揺るぎないものになるかもしれないし、匹夫の蛮勇で選択しても、すぐに現実の困難にさらされ、逃げ帰ってくる可能性も高い。

 いずれにしろ、「あらかじめ何かやりたいことがある」というのは、今この瞬間の世界について、あれこれ思いめぐらすのではなく、最初から自分の中を覗き込んでいるわけだ。世界と自分との関係性のなかで何かを「表現」を見出していくのではなく、自分のなかの好きなことに従った「表現」を行うための処世を積み重ねていくわけだから、その「表現」は、とても狭く個人的に閉じたものになるか、既存の価値観に媚びたものになるかだろう。

 「雑誌編集者になること」を目的として、雑誌編集者なら何でもいいという感じで、コネとかハウツーで、自分の周りを固めていくやり方もあるだろうし、「雑誌編集」などどうでもよくて、たまたま、自分の伝えたいことを伝える方法として、そういう方法に行きあたったということもあるだろうと思う。

 いずれにしろ、最初から何をすべきか明確でなくても、様々な葛藤をいろいろ繰り返しているうちに、ようやく、自分のやりたいことが輪郭付けられていくのは自然のことで、そのようにして輪郭づけられれば、歳月の厚みがあるから、自ずから自分のやれることをやればいい、という気持ちに整っていくような気がする。

 でも、これだけ複雑怪奇に肥大した時代において、20歳くらいでそうした境地に達するというのは、どこかに嘘かごまかしがあるように思う。30歳とか40歳とか、もしかしたら、それ以上にならないとわからないというのが、本当ではないか。

 だから、不本意のことがいっぱいあっても、人生の一時期、会社で思いきり働くことや、旅に出ることがあってもいいのではないか。不本意を避けて通らず、不本意をめいっぱい感じて我慢することで、その不本意の正体を掴めることもあるだろう。また、その不本意から脱出するための強い覚悟も固めることができるだろう。

 私は、最近のNHKなどのやり方が、どうも気にいらない。

 星野道夫さんを持ち出して、「やりたいことをやる美しさ」みたいなものを語ったり、「ワーキングプアー」とか、「今日の情報化社会」のことや、「目的を持てない若者の現状」を特集する際の問いなどにおいて、あまりにも「この瞬間の二者択一」が多い。

 二つのうちの一つを選択するというスタンスをとっているが、それらの問いは、どちらも同じだろうと私は思う。どちらも、この瞬間の目に見える形であったり、右か左の選択を強いるようなスタンスから生じるものなのだから。

 問いを立てるのであれば、私は、そうした「薄っぺらい二者択一のお気楽さ」か、「試行錯誤の厚みを重ねるしんどさ」だと思う。

 「この瞬間の選択」でモノゴトが決するという思考のバイアスは、選択する大学によって人生が決まるという思考と、一卵性双生児だと思う。

 「大学に入ること」「好きなことをやること」「写真家になること」「学者になること」「画家になること」などカテゴリーそのものには、何の価値もない。

 大学教授が偉いわけでもないし、写真家が格好いいわけでもない。名刺の肩書きなどどうでもよくて、その人が行っていることそのものを見て判断すべきことだろうと思う。

 何を選ぼうと、もしくは選んだわけではないけれど、たまたまそうなったことであっても、その後の気の遠くなるようなプロセスの積み重ねを行うことができれば、どんなことでも、尊敬すべき何ものかが立ち現れるし、それができていないものは、他人から見れば薄っぺらいことにすぎない。薄っぺらさをごまかす演出ばかりが花盛りだが、そういう虚飾にごまかされてはいけない。

 といって、内面がどうのこうのという精神主義でもない。どんなにごまかそうが、その表層に現れてくるものがある。ノイズが多いものは、その表層に現れてくるものを直視させたくないからであって、そのノイズにごまかされずに、そこに現れているものだけをしっかりと見て向き合うことで、自分のなかに大事なことが蓄積されていき、時間をかけてそのプロセスを踏んでいけば、自ずから自分のやるべきことが見えてくる。ノイズにごまかされて焦らされたりするから、自分を見失い、自分のやるべきことが見えてくるまで待ちきれなくなってしまうのだと思う。

 「自分がやりたいことをやれ!」などとけしかけれて行動しても、自分のなかに熟成したものがないと、後が続かない。続かないのに、続ける理由を無理矢理作って執着することもあるだろう。そうなった状態は、写真家であれ、作家であれ、雑誌編集であれ、サラリーマンであれ、官僚であれ違いはない。

 何をやっているかではなく、どのようにやっているかに、耳を傾け、目を向けていたい。