この国を今よりも少しはよくする方法!?

 

 何事も一挙によくなったりしないことはわかっているけれど、今より少しはよくなるための方法を一つ考えてみた。

 現在、新聞、雑誌、テレビなどで、「政府」を批判する時、「政府」という言葉を「国民」という言葉に置き換えるべきではないかと思った。

 国民が選挙で選んだ国会議員だし、その国会議員が選んだ総理大臣なのだから。

 戦争責任の問題や、福祉の問題など、「政府は非情にも弱者を切り捨てる選択をしている」というところを、「この国の国民は非情にも弱者を切り捨てる選択をしている」と言うべきだし、「政府は戦争責任を認めようとしない」ではなく、「この国の国民は戦争責任を認めようとしない」と言うべきなんだろう。

 この国の政治は、どんどん国民とかけ離れてきている。その現象に対して「国民不在の政治が行われている」と表現されることがある。

 その言葉は、政治が国民を無視しているという意味で使われているが、そうではなく、国民が政治に参加していない、つまり他人ごとになっているから、国民不在の政治になるだけのことだ。

 とはいえ、政治に参加しましょうよ、と声をかけても、政治に参加するというのはどういうことか、よくわからないというのが実状だろう。

 政府反対運動をすることが政治に参加することだと思っている人は短絡的だ。そういう政府を雨後の竹の子のように作り出す構造が国民のなかにあるかぎり、同じことが繰り返されるのだから。

 だからひとまず、国民の政治参加がどういうことかわからないままでいいから、政府を批判する論調の時に、政府という言葉の変わりに、国民という言葉を使えばいい。そうしているうちに、国民が何をすべきか少しずつ見えてくるかもしれない。

 「政府」を主語にしているかぎり、矛先が自分に向かない国民は、政府を選んでいるのにもかかわらず、原因の一部が自分にあるのだという自覚をもてないと思う。

 同様に、自分という存在が、今よりも少しはよくなる方法を考えてみた。

 自分がやっていることがうまくいかない原因を、「社会」や「会社」のせいにするのではなく、「自分」の中に求めることだ。そのことに気づかないかぎり、「社会」や「会社」が今よりもましになったとしても、自分がやることがうまくいくようにならないと思う。

 その理由は簡単で、ものごとがうまくいくかどうかは、良い環境でも悪い環境でも、最終的にその人の対応力にかかっているからだ。対応力が全然備わっていないと、いくら良い環境でも、うまくいかない。赤子のように他人に庇護されるだけで幸福になる自信があればいいが、成人のメンタリティは、そんな単純なものではないだろう。達成感、自己実現、やり甲斐などを求め、そういうもののない退屈な人生を生理的に恐れるのも成人の自然だろう。

 「社会」や「会社」のせいにすることは、「自分」の対応力の無さと向き合うことのしんどさから逃れる口実になる。今はそれでいいかもしれないけれど、10年後の自分も対応力が無いままかもしれないと想像することは、おそろしく不安だ。

 対応力があるのに社会が悪いからうまくいかないと考えていたとしたら、その考え方そのものに、対応力の無さが現れている。

 社会や会社に問題があることも事実だ。しかし、社会や会社は、常に流動的で、一つの確かな実体があるわけではない。多くの不安定な人間の集まりが、「社会」であり「会社」だ。

 だから「社会」や「会社」のせいにしても、「社会」や「会社」が自分に都合良く変わってくれる筈がない。

 本気で変わってもらおうと思うならば「会社」とか「社会」という抽象的な言葉を使って批判するのではなく、その構成要素である顔の見える多様な一人一人に語りかけていくしかないだろう。

 顔の見える多様な一人一人に語りかけるスタンスを継続すれば、もしかしたら自分の対応力も増すかもしれない。

 「社会」という大雑把な言い方での批判は、気休めにしかならない。

 こういうことは、わざわざ書かなくても、みんなわかっていることなんだろう。あまり口に出さないだけで・・・・。 


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