大事なことを容赦なく殺ぎ落とす情報伝達

 昨日の「東京新聞」の朝刊の「この本、この人」というコーナーで、鈴村和成さんの『アジア、幻境の旅 日野啓三楼蘭美女』という書物のことが紹介されていた。

 この書物は、日野さんの旅の足跡を辿る紀行文だそうだ。鈴村さんが、私と同じように日野啓三さんを深く敬愛しているのは以前から知っているし、日野さんの作品のなかで、小説や評論よりも紀行文をもっとも高く評価するのは、読み手それぞれの感性の違いだから、文句を言う資格は私にはない。

 ただし、この新聞記事のなかで、記者の方が、新聞読者向けに日野さんのこと、および、鈴村さんの言葉(おそらく要約してしまっているだろうが)を伝えている文章が、あまりにもいただけないと思う。その記事は、下記のような構成で、まとめられている。

1.日野啓三さんの作品のなかで紀行文が一番面白い。

2.その理由は、旅をしてさまよう”私”こそが、日野文学の原点だから。

3.異郷を漂白し続ける日野さんが、「旅人」になった理由は、終戦時の朝鮮からの引き揚げによって、生涯、日野さんに異邦性がとりついたから。*愛する朝鮮から追放され、”よそ者”になっていく体験を日野さんはした。そして帰るべき生まれ故郷の東京は焼け野原になっていた。それゆえ、現実世界から遊離し、自分の居場所を見つけることができない、いわばゴースト(霊)になった。

 

 そして、最後に、「晩年は評論家としても活動した日野だが、(鈴村さんは)むしろ(日野さんの)紀行文の中に創作の本質を発見し、漂泊者・日野のイメージを繰り返し提示している」と、まとめている。

 しかし、事実関係だけを言うと、晩年の日野さんは、評論家として活動なんかしていない。評論活動は晩年ではなく、小説を書く前の40代前半までのことだ。

 晩年の10年間は、次々と全身に転移していく癌やクモ膜下出血との闘病の軌跡であり、その間、生と死の境目のなかから生まれた幾つかの長編小説および短編集の傑作群は、断じて紀行文ではない。

 日野さん自身は、亡くなる前年に発行された短編集 「落葉 神の小さな庭で(2002)」で、小説としてはようやく納得できるものが書けた、というようなことを仰っていた。

 それ以前のものでは、紀行的要素も入っているけれど紀行文ではない短編小説集「聖岩」(1995)、都市を舞台にした短編集「夢を走る(1984)」が、自分の作品のなかでは良い作品だと自己評価していた。

 晩年の、『光』(1995)とか『天池』(1996)などの長編小説は、目も眩むような魂の死と再生の物語で、素晴らしく濃密な内容だが、あまりにも濃密すぎて自分自身で客観的に評価はできないという感じだった、

 いずれにしろ、日野さんを紀行作家として括ることは、私には、どうにも納得いかないところがある。

 実をいうと、日野さんの旅のエッセイとしてもっとも濃密なものは、私が制作編集をした「ユーラシアの風景」(2002)だと思う。というか、世界各地の旅を元にしたエッセイは90年の「モノリス」くらいしか他に見当たらない。タクラマカン砂漠カッパドキアについてはいろいろ書かれているが、紀行文としてではなく、小説として書かれている。

 「ユーラシアの風景」には、日野さんが世界各地で撮った写真も掲載されている。この本は、「落葉」の後に発行されたもので、日野さんが生きている間に作られた最後の書物になった。でも、この内容もまた純粋に紀行文というより、人類の意識の深層をめぐるものであり、「文明」や「自然」がテーマだった。

 このエッセイは約5年間にわたって書き連ねたもので、病気の後のリハビリにちょうどいい、と日野さんは言いながら書いていた。

 いい感じで肩の力を抜いて書いているため、それが結果的に軽やかでありながら深いものになった。日野さん自身も、書いている時は淡々としていたのだが、全編まとまったゲラで読んだ時、「僕は凄いものを書いたんだな」と、しきりに自分に感心していた。

 

 それはいいとして、昨日の新聞記事で、日野さんの作家人生を語る上で、終戦時の朝鮮からの引き揚げだけが重要視されているが、果たしてどうなんだろうか?

 日野さんが、どうしても小説を書かざるを得なくなったのは、読売新聞の特派員として経験することになった「ベトナム戦争」だ。朝鮮からの引き揚げよりも「ベトナム戦争」の体験が、日野さんの魂の陰影に深い影響を残していると私は思う。

 そして、作品世界がより深遠なものになっていくのは、晩年の闘病生活だ。日野さんの凄いところは、ほぼ2年ごとに癌が再発するような状況のなかで小説世界がより深まっていったことだろう。

 その晩年の10年間、日野さんは、東京新聞に書いてあるような「評論活動」などしなかった。というか、「評論」という客観的態度では伝えきれないほど生と死と魂の問題が自分にとって抜き差しならない状況であったわけで、その間、日野さんは、自己救済のために、重く深い「小説」を書き続けたのだ。文学の力ではないと、生と死と魂の問題に向き合うことはできなかった。日野さんが強靭な生命力を発揮して、癌やクモ膜下出血から再生し続けたのは、「文学」の力だったと私は思う。

 そういう私の思い込みは別にしても、「晩年は評論家としても活動した日野啓三」という新聞記事は、その事実関係から見ても、また日野さんの晩年の壮絶な10年を語るうえでも、見当違いだと思う。

 日野さんは、「小説を書くためには、エッセイや評論の何倍ものエネルギーが必要になる。通常の神経ではできない。」と言っていた。日野さんにとって、小説は、エッセイや評論と等価ではなく、魂の闘争そのものだった。それだけ特別なものだったのだ。

 エッセイや紀行文の方がわかりやすいから、そちらを分析して様々な作家論を語ることは簡単だが、おそらく日野さんは、そういうことを望んでいない。

 日野さんは作家論などもどうでもよく、心身を削るようにして書いた小説と向き合ってもらえることだけを望んでいるのではないかと思う。

 

 とはいえ、私は鈴村さんのこの本は読んでいない。何かの文芸誌で掲載されていた日野さんの旅の足跡をめぐるエッセイは読んだ。その時の印象では、鈴村さんは日野さんについて何か結論じみたことを述べようとしているのではなく、自分自身もまた魂の漂泊者となって日野さんに問いかけながら旅をしているという感じだった。

 自らに問いかける際に、自分の頭のなかで日野さんの思考や感受性とすり合わせることは、私が「風の旅人」を制作するうえでも行っていることだ。

 だから、私は、鈴村さんの書いた本について(まだ読んでいないわけだし)、あれこれ言いたいのではない。

 あまりにも簡潔にまとめてしまって大事なことを容赦なく殺ぎ落としてしまう新聞記事に対して、懸念を抱いているのだ。

 新聞という媒体が、モノゴトを伝えていくうえで、このような殺ぎ落としを宿命付けられているのであれば、今日の社会における新聞の存在価値じたいが問われることになるだろう。情報要素を伝えるだけであれば、インターネットの方が、スペースに余裕があるから、より正確にできる。

 そして、今日の様々な問題は、”大事なことを容赦なく殺ぎ落とす”情報伝達そのもののなかに潜んでいると私は感じているが、”大事なことを容赦なく殺ぎ落とす”媒体は、その問題を根深く広げる力になっても、それを解決する力にはなり得ないように思われる。


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