新しいヒューマニズム

あとがきに代えて日野啓三氏に聞く

新しいヒューマニズム (ユーラシアの風景より)


 私はもともと旅行好きではありませんが、自分でもよくわからない力に駆り立てられ、地球上の色々な場所を訪れました。私にとって、外なる世界と、自分の内なる心の空間は別のものではありません。自分を遠くから呼ぶ声は、自分の内側の深い声と同じです。その声に導かれるように、私はカッパドキアタクラマカン砂漠の端まで行きました。

 私の生涯で訪れた場所のほとんどは地理的にユーラシア大陸に属します。ユーラシアであることを意識しながら旅行していたわけではありませんが、結果的にそうなったというのは、自分なりに大きな意味があるのだろうと思います。

 ユーラシア大陸を旅すると、人間が作り出したものや、人間が自らの力で作り出しながら壊してしまったものを無数に見ることができます。歴史のこちら側の現実が剥き出しになって残されており、人間が何を欲し、何を恐れ、何を不安に思いながら今日まで生きてきたか、強い実感として理解できます。同時に、人間が人間になるために費やしてきた数々の厳しさに私は思いを巡らせます。こうして人間は人間になってきた。試練と傷のなかで人間は人間の理念を鍛えてきた。そして今後もそれが続いていくことが私には感じられます。

 そしていろいろな意味で、今という時代が大きな節目であることを私は強く意識します。

 テレビとか新聞を見ていても、少しずつ何かが変わってきていることが実感できる。それは社会の表面に現れる部分のことだけを言っているのではありません。人間の意識の奥深いところで何かが新しく動きはじめているのではないかと私は感じるのです。

 昨年の9.11のニューヨークのテロはきわめて象徴的な出来事ですが、今日の世界において、いろいろなものが壊れて、人間は、人間という理念を考え直さなければならない時期にきている。そういう状態になってしまっていることが嘆かわしいと言うのではなく、人間が新しい人間の理念を考え直すために真剣になりはじめていることが大切です。この現実を嫌だと感じ、この現実から逃れたいと切実に思い、苦しみ、その激しい痛みに耐えながら状況を少しでも前に進ませようとする意志を人間が持っていることが尊いのです、その意志こそが人間であることの仄かな希望であると言っていいのではないでしょうか。

 変わるというと、世間では良くなるか悪くなるかという議論にすぐなってしまいますが、良い悪いではなく、厳しさを受けとめながら考えるべきを考えたうえで前に進むという作業を通して、人間は人間になっていくのだと私は思います。

 この十年で、私は幾度もの「死に至りかねない病」を経験し、その思いをいっそう強くしました。だから私は自分の使命として考えることを放棄したりしない。いろいろなことが気になってしかたがない。気になって調べたり考えたりしている。そうしているうちに、昔から人間は同じようなことを続けてきたのだという思いに至る。そうした人間の精神に私はとても共感を覚えています。きっと何か目に見えない力が私を下支えして、私をそのように仕向けているのです。滅びの可能性を孕みながら、これまで人間はしなやかに生きてきたし、これからもそうできるはずです。人間は愚かさとともに賢さも強さも同時に持っているのですから。解決の道は何事も単純ではなく、複雑で重層的で、とても難しいけれど、簡単に諦めることはできない。

 まだまだ色々なことを見て、勉強して、考えなければなりません。私はこのように長く生きてきて、今ごろになってわかってきたこともたくさんあるので、そこから何かをはじめていけるような気がします。静かに悟ってしまってはだめです。人間はまだ人間になりきっていません。私はまだ私になりきっていません。不完全であることは、可能性に満ちていることです。私達には、まだまだ生きる意味や、やるべき仕事が残されています。今日の話を終えたところからも、何かが新しくなっていきます。きっとそうであると私は思っています。 (聞き手・佐伯剛)

 ここに掲載した「新しいヒューマニズム」は、「ユーラシアの風景」の後書きとして、日野さんにインタビューした時のものだ。

 インタビューといっても、この時の日野さんは、ほとんど意識が混濁していて何を言っているのか、普通にはよくわからない状態だった。呻るように発せられる言葉は切れ切れで、ほんの二言三言発した後、底深い溜息をついた。溜息といっても、気力の抜けたような息ではなく、思念の全てをこめて言葉にならない言葉を大きく吐き出すというような感じだ。日野さんは、小説を書く時、そのような深い呼吸をしながら、自分の一番深いところに自分を沈めて、あちら側の世界に全身の感覚を浸すようにして書くというようなことを生前に仰っていた。頭に思い浮かぶような事をつらつらと書くのではなく、書く前には何を書くのかわからなくても、位相の異なる状態へと自分を導くことで、言葉が自分に降りてくるのだ。

 そして、「ユーラシアの風景」の後書きのインタビューで、日野さんが深い呼吸をしながら切れ切れの言葉を吐く時、心身の状態としては「小説」を書く時のように、視点が目の前に定まらずに、どこか遠くへと彷徨いでいるような恐い状態だった。もし体力と気力が残されていたなら、そこから小説を書くだろう。しかし、既に日野さんにその力は残されていなかった。

 私は、日野さんが吐く切れ切れの言葉を神経を集中して一言も洩らさないように拾い集めた。息が止まっていたのではないかと思うほど厳粛な時間だった。

 言葉はきれぎれであったけれど、日野さんが何を言いたいかはわかった。それまで長い間、日野さんとの対話のなかで私の中に少しずつ蓄えられていた内容だったからだ。だから、切れ切れの言葉の背後にある大きな世界は、それまでの対話の厚みのなかから取り出すことができた。

 それまでの5年間、日野さんと語り明かしてきた対話の内容は、時間のスケールでは、人類誕生や宇宙誕生の時から今日に至るまでの、目に見える現象としての歴史ではなく、”精神”の流れとでも言うべき根元的な脈動に添ったものであり、地理的には、広大なユーラシアの各地に点在する古い文明拠点を中心に、そこから渦を巻きながら放射状に伸びるように次々と空間を広げていくものであった。そして、そのなかに、細いながらも強い糸を紡いで次から次へと繋いできた人々がいて、それら本当の哲学者や芸術家たちとの時空を超えた邂逅が語られた。地上に何が起ころうが、古代から現代まで世界に対してしっかりと目を開いて、同じ種類の糸を繋いでいる人々が少数かもしれないけれど確かにいるのだよ、ということを日野さんは仰っていた。

 実感できるかどうかは別として、生命体としてこの宇宙の全てがつながっていることは、いろいろなところでよく言われるし、確かなことだろう。でも、その感覚だけだと、人類は前に進めない。

 人類は他の生き物とは異なる意識を身につけてしまった。その意識があるかぎり、他の動物と同じように生きていくことなどできない。

 日野さんが確信していたのは、生き物としての繋がりとは別に、”人間精神”のつながりというものがあるということだ。

 この宇宙には、生命体を誕生させた大いなる力が間違いなくある。それを一言で”神”と片づけるわけにはいかない。神という言葉に置きかえることができる「固定した確かな実態」があるわけではないからだ。確かな実態ではないけれど、精神の働きのように得も言われぬようなエネルギーの流れみたいなものがあることは確かであり、そのエネルギーの流れみたいなものを何かしらの形で目に見えるものにしようと懸命の努力を重ねてきた人たちがいた。目に見えないエネルギーが、目に見える形になって生き続けるという意味において、その創造行為は、宇宙に生命を誕生させた力に通じるところがあるのだろう。その目に見えぬエネルギーの流れは、気を抜くと、たちまち混沌のガスとなって霧散する。息を詰めて、丁寧に、真摯に、祈るように少しずつ手許に手繰り寄せて、ただ集めるだけでなく、エネルギーの流れを損なわないように形作ることで、それが生きた形になる。次なる人は、エネルギーの状態が以前と同じになることが一切ないために先人と同じ方法では不可能だが、その関わり方の身体感覚とか奥義みたいなものだけを受け継いで、同じように、息を詰めて、丁寧に、真摯に、祈るように世界を少しずつ手許に手繰り寄せる。そのようにして繋がれていく”精神”の流れのようなものがあり、それは、地上に溢れる現象世界に埋もれるように見えにくい形で存在している。その繋がりは目に見えにくいが、感応できる人にはわかるものだ。

 感応できるということを意識化すること。

 21世紀、人類の新しいヒューマニズムの可能性があるとすれば、20世紀型の「知的分別」によるものではなく、「感応」の力を、「知的分別」より高い位相のものと再認識する必要があるのではないかと思うことがある。

 インターネット社会の急激な発展によって、膨大な情報を知的分別で選別していくと、高い垣根に囲まれた狭いところに落ち込んでしまい、身動きできない状況に陥る。だから、従来の「知的分別」重視の教育では、この新しい社会に適応できなくなると私は確信を持っている。

 次々と更新される膨大な情報のなかを自由自在に行き来する力は、柔軟で素早くバランス感覚に優れた「感応力」だろう。「感応力」は、人間に新しく付け加えられる能力なのではなく、もともと誰もがもっている力だ。それは子供を見ているとよくわかる。子供は、おそらく大人よりも感応力が優れている。にもかかわらず、知的分別重視の教育によって少しずつその力が損なわれていく。「感応力」が、性や暴力の欲望などと等しく本能的で低位なものとして扱われ、「知的分別」の下に従属させられてしまうのが、これまでの社会の特長なのだ。

 そうしたことがさらに顕著になり、早期教育などによって、子供の「感応力」は早い段階で大人に奪われ、「知的分別」に置きかえられていく。人間なら誰しも潜在的にもっている力が、歪められてしまうのだ。

 知的分別に毒された大人が、子供の感応力を損なわないように、子供と付き合っていけるかどうか。それによって、今後の日本社会の流れが決まってくるのだと私は思っている。 


◎「風の旅人」のオンラインショップを開設しました。「ユーラシアの風景」も購入可能です。

http://kaze-tabi.open365.jp/Default.aspx

 それを記念して、半年前までのバックナンバーを、2冊セットで1200円(税込み・発送料込み、手数料込み)で販売致します。