われらの時代

 年末のこの時期、一人編集部の部屋にこもり、「風の旅人」第25号の写真構成などを見ている。

 テーマは、「われらの時代」。巻頭特集で、「吉原家の130年」と題して、一家族の130年に渡る写真を、50ページにわたって紹介する。途中、大火があり、戦争があり、大地震があり、それでも人間の営みは脈々と続けられていく。

 そして、その特集の後半部分、太平洋戦争のところで、少年が戦争プロパガンダのために使われている写真と、モンペ姿の健気な少女の卒業記念写真や、これから戦争に行くのであろう少年達の凛々しい姿が組み合わされたページがある。

 この見開きページをずっと見ていると、私はなぜか不覚にも涙が出てとまらなくなってしまった。

 今の自分の気分の問題でもあるのだろうが、何か胸が締めつけられるようにせつないのだ。

 プロパガンダで使われるべき少年の写真は、本当は凛々しく勇ましくといきたいだろうに、その表情はとても哀しく見える。そして、これから戦争に巻き込まれていく悲劇の少年少女たちの方が、不自然なほど強く溌剌としている。

 人間の内面と外に現れる態度は、極限状態になればなるほど、大きく捻れる。その悲痛な捻れが写真から伝わってきて、とても胸苦しい。

 これらの写真を掲載するのは、「戦争の悲劇性」などと大上段から構えるようなプロパガンダを行いたいがためのものではない。

 私は、実感として「戦争の悲劇性」はわからない。わかるようにしなければいけない、という人がいるかもしれないが、いくら頭でわかっても、心や身体がついていかなければ、どうしようもないのだ。

 私は、「戦争の悲劇性」はわからないが、極限状態における人間の心の捻れは、実感としてよくわかる。理性ある人間は、理性によって心身を管理しようとする。だから、心の中で苦しんでいても、態度と行動は気丈であらなけらばならないなどと思い、そのように懸命に努めたりする。

 人間は、屈折している。良いものは良い、正しいものは正しい、悪いものは悪い、好きなものは好き、と単純に言い切れてしまえば、どんなに楽なことか。それが簡単にできる場合は、その人の資質の問題というより、環境要因として恵まれた状態にあるか、実際はそうでないのに、目が曇っていて気付いていないだけなのだ。

 戦争は一つの特殊なケースだろうけれど、そのような極限状態にあれば、人間の心と行動や態度は、捻れてしまい、自分に正直になんかなれやしない。

 人を愛する気持ちが強ければ強いほど、相手の懐に飛び込むのではなく、気丈であろうと努め、自分を別の行動に駆り立ててしまうこともあるだろう。むしろそれが自然なこともある。おそらく、そのように悲痛に捻れる気持ちを抱きながら、顔や態度を凛々しく装い、戦地に赴いた若者たちの胸中が自分ごとのように伝わってきて、せつない気持ちでいっぱいになる。

 私は、戦争を知らなくても、自分自身の捻れについては、痛いほど知っている。

 現代社会において、たとえば企業で働く人だって、将来のことを思い悩んで日々悶々と思いを巡らせている学生だって、人によって多少の違いはあるにしても、表向きの顔と、心の中との間で、胸が圧迫されるほどの捻れを感じ、それに耐えているだろう。

 人間としてまともに生きていかなければならないと命じる理性によって、この社会は、秩序的に成り立っている。一人一人の懸命の自制によって、全体の機能は守られている。

 そして、たとえ心が悲鳴をあげていても、耐えることが立派だと私たちは擦り込まれている。政府とか教育とかの問題ではない。本当は繊細で弱い一人一人が、健気なまでの自意識によって、巨大で凶暴で人間に容赦のない世界のなかを自分の足で歩き続けるために、そうでなければならないと自分に擦り込んできたのだ。強くなければ生きていけない。だから自分を強くしなければならないと命じる私たちの自意識。

 そして強くあろうと誓い、他人に弱さを悟られないように努め、人間はどこまでも前に進もうとする。矢折れ刀尽きても、前進しようとする。

 今は戦争状態ではないかもしれないが、私は自分のなかに、戦時中の若者達のような”強がり”が宿っていることを知っている。それを私は、”責任”という言葉に置きかえる時もあるだろう。

 「全てのことに対して、適当な距離を保ちながら、その間を微妙なバランス感覚で泳ぎ続けること。」というスタンスを自らの哲学にして生きていくことが、強情と頑ながもたらす人間悲劇からの逃走の方法論である、などと、わけしり顔で言う人もいるだろうが、そうしたことは、他人に言われなくても、ほとんどの人が自分でわかっている。

 しかし、それができるのは、社会も自分も極限状態にないからなのだ。自分を極限状態に置かないように、できるだけストレスに巻き込まれないように賢く生きていても、社会が極限の二者択一を迫るようになれば、そう呑気なことはいっておれないだろう。

 私たちの課題は、極限状態の時の心身と理性の捻れをどうするかであり、極限でない時の心身や理性の置き所は、ほとんどの人が自分の中で解決できることなのだ。

 仕事でも何でも、大切なものを一つしか選択できない場合がある。コストかクオリティか、などという問題も同じだ。

心身の生理的な判断はクオリティを選択しても、理性が、コストを選ぶ場合もある。コストに関係なくクオリティを選ぶべきだなどと、わけしり顔で言うのは、実際にモノゴトを運営したことがない人だ。

 クオリティもコスト(エネルギー)も最高のところで統合できないと、モノゴトはうまく成立しない。それは、人間界にかぎらず、自然界でも全てそうなっている。

 だから、人間は、「理性」と「心身」の引き裂かれるような捻れを克服して、その両者を融合する術を探し出さなければならないのだろうと私は思う。

 どうすればよいか、今の私にはわからない。でも、自分の理性と心身という自分のなかの視点だけでなく、もう一つ、自分の外に視点を持つことで、それが可能になるかもしれないという予感はある。

 その視点がどういうものか、今はうまく表現できない。スピリチュアルもののように簡単に説明する言葉は、嘘だ。テレビ画面のなかで不特定多数の人に向かって解説者が口にできるような、わかりきった説明も全て嘘だ。本当に大切なことは、そのように不特定多数の人間と簡単なコミュニケーションを行うための定番メニューの中に、入りきらないものなのだ。

 わかりやすい答で解決できる問題なら、人間は、とっくの昔にこの問題を解決している。悲劇は、一度で済んでいる筈だ。

 わかりやすい答えの上に安住するのではなく、理性と心身の捻れに苦しみながらも、それを乗り越える「視点」を探るように手を伸ばし、時に手を合わせ、祈るような思いで人それぞれ何かしていくしかないし、そうした苦しいプロセスを自分で必死に探しだした何ものかの力によって下支えしていくしかないし、そういう生き方こそが、われらの時代を偽り飾らず生きることなのだろうと思う。


◎「風の旅人」のオンラインショップを開設しました。「ユーラシアの風景」も購入可能です。

http://kaze-tabi.open365.jp/Default.aspx

 それを記念して、半年前までのバックナンバーを、2冊セットで1200円(税込み・発送料込み、手数料込み)で販売致します。