働き方と生き方

 一定条件の会社員の残業代をなくす「ホワイトカラー・エグゼンプション」(WE)の法案提出が見送られた。夏の参院選を前に「サラリーマンを敵に回したくない」との与党の判断があったそうだ。

 しかし、この制度は、パート労働法改正や最低賃金の引き上げなど、一連の労働法制見直しとセットだったのだが、それも含めて見送られてしまう。実際に、日本経団連幹部は「この法案の見送りは、(パート労働法改正など)全部セットの話なんだから、全部なし、ということだ」と強気の答弁だ。

 新聞メディアなどでは、『残業代ゼロ制度』などと相変わらず短絡的で扇情的な見出しが躍っていたから、この法案の背景にある微妙な事情などは全て殺ぎ落とされてしまった。

 メディアに煽られ、圧倒的多数のサラリーマンの既得権意識も強まり、選挙を心配する政府の弱腰によって、労働構造にメスを入れるきっかけが先送りになった。

 現在、残業代収入を当てにして生計を立てている人は、その既得権を守らなければならないことは理解できる。

 しかし、企業を相手に仕事をしているとよくわかるけれど、本当に無駄な会議とかが多いし、決断も遅い。一回の会議で何らかの形を作りあげてしまおうというモチベーションも低い。些細の仕事なのに、時間ばかりがかかる。そうなってしまうのは、リスク意識が強くて慎重ということもあるが、何が大事なのか自分で考えて判断する癖がついていないということもある。打ち合わせなどに行くと、だいたいのケースにおいて要素ばかりが羅列される。情報のプライオリティとか、担当者の意志として何をどうしたいのかをこちらから確認しても、なかなか答えが得られない。そういうケースでは、こちらが状況を総合的に判断してプライオリティをつけて、「こういう形でどうでしょうか」とその場で決めて提案しないと、なかなか前に進まない。方針とか優先順位が決まったら連絡下さいなどと言って別れてしまうと、あっという間に一ヶ月が経ってしまう。だから私は、必ず、打ち合わせの当日に逆提案することにしている。逆提案をした時の相手の感触でベクトルを探すしかないと思っている。

 全ての人がこうだというのではない。こうなってしまうのは、ほとんど現場を知らない人だ。現場を知らないから、自分の身体感覚としてどうすればいいかよくわからない。だから、知識や情報を集めようとする。でも、いくら知識や情報を集めても、それをどう使いたいかというのは、最終的に自分の生理的感覚なのだ。その感覚は、現場を通して培われる。

 だから、現場の人と話すと、いろいろなことが見えてくるし、モノゴトの筋がわかる。しかし、現場の人は、例えば企業の戦略とか企画とか広報とか商品開発とかは、自分の専門外だと思っているところがある。「自分は現場は知っているけれど、そういう難しいことはよくわからないので・・・」などと言う。頭脳的な仕事と肉体を張る仕事は別であって、頭脳的な仕事は、その専門の人がやるという心理的構造になっているようなのだ。

 そして、頭脳的(私は全然そうは思わないが)とされる仕事に携わる人は、自らの権威付けと現場を知らないコンプレックスを隠すために、情報とか専門知識とか横文字とかで武装する。そして、益々、現場の人たちは、自分には手の届かない世界だと思ってしまうという悪循環がおこる。

 私は、その両者の間に入って繋ぐ仕事が多く、時々、その辺りのギャップを実感する。

 今に始まったことではないけれど、今日の企業社会の無駄は、分業によるところが多いと思う。

 かつて分業は効率化のために行われた。しかし、その分業がより細密になることで、ロスが生じてきている。キャノンがフォード式のオートメーション工場を廃止して、一人の人間が一千点を超える全部品を取り扱って一からコピー機を作りあげるシステムに切り替えて成果を出しているという話しを耳にしたことがあるが、おそらく、今後、このように分業から統合へと流れは加速されると思う。

 そうなってくると、仕事の価値や対価は拘束時間によって計られるものでなくなる。

 もちろん、今急激に変化しても、働く側の意識がついていっていないということもあるし、意識や働き方が変わらないと、残業代が減って給与が減るということだけというネガティブな気持ちを抱えたまま生きていくわけだし、小学校から受験戦争で必死に闘ってきた結果として掴み取った大手企業のサラリーマン職なのだから理不尽な思いをしたくたいという気持ちが勝って、現状では反対者が多くて当然だろう。

 しかし、たとえ今回見送りになったとしても、近い将来、そうなることは間違いないと思う。

 だから、今のうちに、いろいろな面で考え方を変えていかなければならないだろう。

 それは、現在、企業で働いている人に限らない。将来の就職を考えるうえで、企業のサラリーマンになるために受験戦争を必死に闘っても、大手企業のサラリーマンになったら人生において勝利者でもなく、安泰ということでもなく、見返りがあるという保証もないということだ。

 現在の受験システムは、大企業就職をヒエラルキーの上位に位置づける形で成り立っているようなところがあるが、そうしたことも、少しずつ崩れていくことになるのだろう。

 会社や社会の変動に翻弄されない生き方がどういうものであるか、一人一人が真剣に考えるようになると、社会は変わってくるのではないか。 

 そして、そういうことを真剣に考える人たちの孤独を下支えするような文化が育ってくることが、その社会変化を後押しするのではないか。

 既得権をもっている人たちは、一人一人が生き方を真剣に考えるようになって今のシステムが崩れていることを恐れているだろう。

 だから、真剣に考える人の邪魔をして、いたずらに焦らせたり、その場限りの慰みを大量に与えて何も考えないように仕向けたりする。

 しかし、その人たちがどう企もうが、これまでのシステムでは円滑にモノゴトが回らなくなってきている。効率が非効率になり、便利が不便になり、安泰が不安定になり、面白いが退屈に、快適が不快に、綺麗が醜いになってきている。

 もしかしたら、子供を塾に入れて進学競争に参加させて朝から晩まで数式やら英単語やら歴史年表ばかり詰め込むことが、長い人生を生きていくうえで最大の非効率ということになる可能性も、ないとは言えない。コンピューターで簡単に引っ張り出せる情報を頭に詰め込むのではなく、それらの情報を状況に応じて組み合わせて新しく編集する力を養う方が、子供にとって大事なことになるかもしれない。

 そして、豊かさの定義も、他人からあてがわれたもので自分を飾ったり、それを使いこなしたり処理するのではなく、自らの内側から何を生じさせるかによって計られるようになるに違いない。


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