教育のこと

 教育再生会議が公表した教委改革案において、教委の事務処理が法令に違反したり、教育本来の目的達成を阻害していると認められたりした場合、文科相が「是正のための勧告」や「是正の指示」をできるよう法改正が提言されている。これに対して、地方の教育関係者などは、自分たちに対する文科省の権限拡大に強い懸念を示している。

 国の主張は、全国の教育現場が荒れて不適切な教師も増えているので、それをきっちり指導して健全な方向に導いてあげなくてはならないというもので、教育関係者以外の人がぼんやりと聞いていると、説得力のある話しに聞こえてしまう。それに抵抗している人々が、教育再生会議の改革案は戦前のように国家権力の教育への権限拡大と介入につながって危険だと主張しても、先の戦前を知らない一般の人々からすれば、それは、自分の怠慢を国家に制裁されたくない自己保身の詭弁だと解釈されてしまう可能性も高い。

 そもそも「文科省」とか「国家」に教育を委ねるというのは、いったい何を意味するのかを、戦前のこととは別に私たちが実感できるケースにおいて、考えることが大事なのではないか。

 「文科省」とか「国家」といっても、特定の極悪人がそこにいるわけではない。

 「文科省」とか「国家」が教育をコントロールするというのは、特定の人が何かをするというより、「特定のルール」が、教育をコントロールし、国民をコントロールするということではないか。そして、その「特定のルール」を作る際、全ての人に当てはまるものを作るのは困難で、広く一般的に当てはまるだろうと想定されるものとなりやすい。さらに、広く一般的に当てはまるものだろうと想定してモノゴトを決めていく委員会のようなものが作られるが、そこに選抜される人にも、ある種の偏りが生じている。その偏りというのは、これまでの社会基準のなかで優秀で立派だと価値付けられる人物であるということだ。

 政治家も大臣もそうだし、委員会に顔を並べる人もそうだが、自分を人生の成功者とみなし、その自分を基準にしてモノゴトを考え、教育はどうあるべきかと判断していくだろう。人間がモノゴトを考えて判断する場合、どうしてもそうなってしまう。しかし、たとえそうなっても、生身の自分が常に現実と接していくのであれば、その都度、自分の考えが修正されていく可能性は残る。しかし、ルールというのは、いったん決まってしまうと、それが王様になって、現実の方をそれに合わせざるを得ない。

 「文科省」とか「国家」による統制というのは、独裁者の統制というより、王様になってしまった「特定のルール」による統制なのではないかと私は思っている。

 そして、その「特定のルール」を作る際、全ての状況に当てはまるルールなどないから、必ず殺ぎ落とされてしまうものがある。いったん、そこで殺ぎ落とされてしまうと、その状態が固定されてしまう。

 殺ぎ落とす作業は、悪意によってなされるのではないということが、問題をより根深いものにする。悪意で殺ぎ落とすのではないから、多数決などを行うと、通ってしまう可能性が高いのだ。

 おそらく、教育におけるルールづくりは、これまでの社会基準のなかで成功した人たちが中心になって考える「立派で優秀な人物づくり」に価値を置くものだろう。

 そして、その人たちは、「個性」という言葉を口にしながら、心のなかでは、「立派で優秀な人物」というものが普遍的な存在であり自分はそこに属していると信じている。その人たちにかぎらず、メディアも、学校関係者も、親も、「立派で優秀な人物」の基準を、知らず知らず共有しており、その基準の上に、この社会のヒエラルキーができあがっている。

 そうした価値基準を欲するのは人間の性質でもあるが、今日の社会の問題は、かつてない情報インフラの発達によって特定の価値基準を全員に共有させようとする力が働きやすいところではないかと私は思う。

 国家や文科省が教育を統制するというのは、いろいろな例外を殺ぎ落とした「立派で優秀な人物づくり」を、国民全員に強要していくということではないか。その基準が、本当に素晴らしいものであるのならいいが、実際はそうとは言い切れない。

 明治維新の頃であれば、政府が示す立派で優秀な人物像を盲目的に信じこんで、それを目標に頑張れる人も多かったかもしれないが、今日の社会ではどうだろうか?

 自分のことを立派だと信じこんでいる政治家や大臣や委員会のメンバーのような人物を目標に、努力して頑張ろうと思える青少年がどれだけいるだろうか?

 発展途上国の子供たちは、とても熱心に勉強をする。そして、彼らの多くが、将来、教師になりたいと言う。学習することの喜びを強く感じているからこそ、その喜びを提供できる教師を尊敬し、そうなりたいと思って努力するのだろう。

 子供たちの努力する姿勢やモラルは、そのように自らの内側から自然に湧きあがる感情によって整ってくるものであって、ルール化された基準や、立派で優れた人物像を強要されることでできるものではないだろう。

 教育のためのルールを一生懸命につくろうとしている人たちは、自分の人生が子供たちに尊敬されたり目標にされるようなものではないかもしれないと疑問を持つことから始めなければならないのではないだろうか。とくに今の政治家は、親の地盤を引き継いだ人が多く、その人そのものの魅力や努力でモノゴトを成就しているわけではない。その境遇を羨ましいと思う人はいるかもしれないが、尊敬して自分も見習おうと思う人はほとんどいないだろう。

 教育現場が荒れているのは、ルールが甘いからではない。明治維新以降、そして先の大戦後信じられてきた「立派で優秀な人物像」が色褪せているのに、それに気付かず、もしくは気付いているのに修正することなく、これまでの基準を子供に押しつけようとしているからではないか。

 既に色褪せている「立派で優秀な人物像」をルール化によって強化するような動きは、その価値観に添って努力して立派で優秀な人物の仲間入りをしている人の、自らのステイタスや存在価値を守ろうとする保身行為にすぎない。

 そうした動きは現状をより悪化させるだけだろうが、既得権組にとって価値観の転換や崩壊こそが脅威だから、それを防ごうと躍起になって、ルールをより厳格化する可能性がある。

 子供は、自然に放っておいても、知識欲はある。好奇心も強い。自分が破綻しないようにセルフコントロール力も本能的に備わっている。

 人間が生きていくうえで何よりも大事なものは、環境に応じて柔軟に行動形態を変えながら対処する智慧であり、それは、どんな生物にも備わっているものだ。普遍性とか客観的証明を重視するあまり最大公約数的で形式的なものになりやすい知識は、個別の微妙な環境状況において通用しないことが多く、にもかかわらずそれを偏重することが、今日の生きづらさの原因の一つではないかと思う。

 形ばかりの知識を積み重ねるほどに、知識に縛られ、臨機応変に動けなくなることがある。それよりも、自分だけに通用するかもしれない微妙なニュアンスのある智慧を一つでも身につけることの方が、人生は生き生きとするかもしれない。人から借りた形式的な知識で武装しても生きた現実に対応できないが、自分ならではの智慧が太い幹になれば、知識の枝を必要に応じて伸ばしたり落としたりしながら生きていけるのではないか。自分の子供には、そうしたタフな智慧を自らの内に育んで欲しいと願っている。


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