戦争は、本当に一発逆転のチャンスなのか?

 今朝の東京新聞の「筆洗」で、『論座』という雑誌での論争のことを紹介していた。

 その記事によると、「三十一歳のフリーターの人で、結婚どころか親元に寄生して月収10万円で自分一人も養えない」という人が、”ポストバブル世代”の窮状を代弁しながら、太平洋戦争時、東大エリートの丸山眞男が学歴もない一等兵にイジメられたことを例に、戦争とは現状をひっくり返す逆転のチャンスだという論を説いているらしい。それに対して、鶴見俊輔さんが「民衆の底に隠された問題を提起している」と受け止めていたり、森達也さん達が厳しい批判を寄せたり、吉本隆明氏がアドバイスを寄せているらしく、それを、東京新聞は、「近ごろこんなに刺激的で、考えさせられた論争はない」などと、自分の見解は述べず、遠巻きに感想だけもらしている。

 森さんの批判はまだ読んでいないが、森さんには「風の旅人」にも連載していただいているので、どういう考え方をもっておられるか想像はできる。森さんは頭でこねくりまわすだけの言語遊戯を好む人ではなく、自分の身体的痛みとして引き寄せて考える人で、この三一歳の人の思考のバイアスの背後にあるものに対して、非常にやりきれないものを感じているだろうと思う。

 それに対して、東京新聞の紹介の仕方や、有識者のアドバイス?や分析は、自分ごとの痛みとして捉えていないくせにわけ知った顔で語る今日のインテリ特有のポーズのように感じられる。

 三十一歳のフリーターの人は、「極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。若者は、それを望んでいる」と言いきっているらしいが、「若者は、それを望んでいる」などと、彼が暗に批判する左傾勢力特有の「国民は、それを望んでいる」と同じ言い方をしている。なぜ、「私は、それを望んでいる」と言わないのだろうか。

 新聞もまた、一般的読者を代表するような顔でモノゴトを論じ、「私」の姿を見せない。そして、その卑怯さに自覚的でない。その卑怯さに自覚的でなくなってしまったのは、「客観的思考」というものが、現在社会において主流の思考方法になってしまっているからだろう。私は、社会が硬直化しているというより、その「客観的思考」こそが硬直化しているのではないかと考えている。

 硬直した客観的思考は、思考だけにとどまらず、行動にも影響を与える。その行動特性は、「できるだけ自分の行いに責任やリスクを持たなくてすむように考えて行動すること」だ。

 こうした思考と行動は官僚組織に顕著だが、企業においても、「自分はこれをやりたい。自分が責任を持つからやらしてくれ」という言い方をしても、やらせてもらえることは少ない。多くの企業では、職人的直観など信じてもらえず、市場とか競合他社の動向とか分析して、自分たちのリスクがいかに少なく、メリットが多いかをきっちり説明できなければプレゼンに通らない。必然的に、そうした能力に長けた人が重宝される。そして、そうした能力に長けていないけれど何とかしがみついていこうとする人の処世術は、出る杭にならないことだ。客観的ロジックで他者を説得できなくても、客観的立場で風向きを見ながら、どの陣営にいれば身の安全がはかれるかに心を注ぐ。

 極端な言い方かもしれないが、現代社会の構造はそうなっている。この構造のなかで、うまく生きられる者と、なんとかしがみついている者と、非常に生きずらい者が出ている。客観性重視の環境のなかで人の顔色をうかがいながら生きることが自分には向いていないと思う人のなかでも、人が作った性に合わない環境のなかに留まり、「自分はこれをやりたい」と主張できないけれど心で思いながら不平不満を募らせる人や、「自分のやりたいことをできる場所」を求めて他人が作った環境を転々として途方に暮れる人や、自分でその環境を作ろうと努力する人がいるし、ほとんど行動を起こさないまま、「この社会は自分に向いていない」と思い続ける人もいるだろう。

 いろいろな試験に受かり、現在の環境世界に向いていた人でも、ある日突然、自分の所属先が消えてなくなってしまうこともある。自分に能力があったのではなく、客観的バランスのなかで釣り合いを保っていただけと知り、所属先が消えてなくなった瞬間、自分の無力さを痛感させられることもある。

 また客観性重視による調整とバランスが生命線だった日本企業は、バブル崩壊後、その意志決定力の弱さゆえに、変化する社会環境に敏速に対応できなかったり、トラブル対応が後手にまわるうちに手に負えなくなって隠蔽する体質になって、大きな不祥事に発展したりと、これまでの思考特性や行動特性で、うまくいくとは限らない状態になってきている。実際に、経営危機から立ち直った企業の多くは、客観的分析をするにしても、それに囚われず、経営者の直観的判断とでも言うべき推進力で、短期間に改革を行ってきた。

 現在社会は、データ重視とか高学歴主義のメッキが剥がれてきているし、従来の社会構造に対する不適応者でも、いろいろな選択が可能になっている。また、従来の価値基軸のなかで様々な試験をクリアしてきた人も安泰でなくなっている(保身に走る人は多いが)わけで、戦争にならなくても、既に流動化が起こっていると私は考えている。その流動的な状況を察することができるかどうかが問題であり、頭のなかで、「戦争になれば流動化して、逆転のチャンスがめぐってくる」と考えるのは、妄想にすぎない。

 仮に、戦争によって学歴もない一等兵が東大エリートをイジメることができる状況になったとしても、それは、一過性の環境のなかで、たまたまそうなったにすぎない。戦争は永久に継続するものではないから、環境が変われば、また立場も変わる。環境に期待する発想があるかぎり、たまたま自分に都合の良い環境になった時に有頂天になっても、同時にそれを失うことの不安に苛まれるだけであって、心中穏やかな状態でなかろう。

 また戦争状態は、ある側面で流動的になるかもしれないが、それ以外の部分では極端に硬直化することを忘れてはならないだろう。

 丸山眞男をイジメた一等兵は、自分より弱い立場の者にそういう態度を取れたかもしれないが、自分より強い立場の人間の命令に対しては卑屈に振る舞うしかなかっただろう。戦争によって現状がひっくり返ったように見えるのは、丸山眞男と学歴のない一等兵の二人の関係においてだけだ。ひっぱたくか、ひっぱたかれるかという二者択一の窮屈で硬直した関係は、自分の上にずっと続いているし、自分の陣営のなかだけで完結せず、敵対する国をも巻き込むわけだから、より増大する。

 戦争にならずとも、世の中は流動化している。硬直して息苦しいと感じるのは、自分に対して門戸を閉ざしている古い世界の住人になりたいという心境が強いからだろう。たとえば、アカデミックな業界(それに着生するメディアなどインテリ業界も含めて)や大企業に入りたいけれど、学歴などにおいてその条件を満たしていないなどと。

 確かに、日本の学歴や肩書きや経歴偏重のインテリ業界や大企業は、三十一歳のフリーターが言うように、「平和な社会の実現」の名の下に、経済成長の利益を享受してきた先行世代だと思う。学歴や肩書きや経歴偏重のインテリ世界の住人の大半は、有事となれば不要となる可能性が高い。

 今日のアカデミックな業界(それに着生するメディアなどインテリ業界も含めて)や大企業の多くは、流動化しているとは言い難いかもしれない。大企業が採用を行う際に学歴を見るのと同様、雑誌や本での著者紹介でも、経歴や肩書きで武装する傾向が強い。

 しかし明白なことは、流動性のない水は腐るということだ。実際に、腐り水になっているところも多く、そういうところに魅力があるように私には感じられない。その魅力のなさが、青少年の夢を蝕む。

 一部の頭でっかちのインテリ(及び、その真似事をしたい人)が言うように、現代社会は本当に”フロンティア”がなく、硬直しているのだろうか。そう思う人は、自分の頭が硬直して、フロンティアがない状態になっているだけではないだろうか。現状を壊したい対象は、社会ではなく、本当は硬直して身動きがとれなくなっている自分自身なのではないだろうか。

 そういう人は、狭い穴から自分の目に入る現象だけ眺めて社会を定義するのではなく、一度、きれいさっぱり世事を忘れて、2,3年、気ままに諸国を放浪すればいいのにと思う。

 諸国放浪のための資金くらいは、ちょっとバイトをすれば貯めることができる”豊かな”社会なのだから・・。 


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