”いのち”を与えるということ

 大竹伸朗さんに「風の旅人」の第25号(4/1発行)から表紙の制作を依頼しているが、その第2回目が出来上がった。第25号(6/1発行)のテーマ、LIFE ITSELFに添ったものだ。

 前回に引き続き、その圧倒的な存在感とエネルギーに強く惹きつけられる。

 大竹さんの作品のなかには、様々な”モノ”が盛り込まれている。一つ一つのモノは、とりたてて言うほどのモノではないが、その一つ一つの関係の仕方が絶妙だからだろうか、全体としてはとても美しく輝いて見える。その活き活きと躍動する全体の”場(時空)”のなかに存在する一つ一つのモノが”いのち”を与えられて、生の脈動が生じているように感じられる。

 私たちは、「生」とか「死」について、社会的な常識を共有している。呼吸をし、熱を帯び、成長したり衰弱するプロセスを「生」とみなし、それらの活動の停止した状態を「死」とみなす。そうした定義に添って、動物や植物など有機物の活動は「生」と認められるけれど、無機物においては、生きたり死んだりする存在としてみなされていない。

 大竹伸朗さんの絵は、いわゆる無機物であるが、それ自体で旺盛な生命力を感じる。そう感じさせる理由はいったい何であるのか考えてみると、上に述べたように、一つ一つの何でもないようなモノに”いのち”を与え、場全体を活性化させているからではないか。

 つまり、生きている状態というのは、生物的な定義だけで括るべきではなく、他の何かに”いのち”を与えている状態を指すのであって、呼吸したり、熱を帯びている状態は、ただそれだけであるなら、生きているというより、他の何かに生かされているにすぎないのではないか。

 しかし、呼吸したり、熱を帯びるということは、ただそれだけで完結することはあり得ず、他の何かと循環が生じており、その循環によって他の何かの働きを促進することがあるだろう。植物は、動物に果実や葉を食物として与えることで”いのち”を与えているが、それだけでなく、水や空気を循環させることでもまた、他の何かに”いのち”を与えている。だから、植物は、呼吸したり光合成をしたりするなど他の何かに生かされながら、生きている。

 それゆえ、果物や葉を食物として提供できない倒木もまた、死んでいるのではなく、他の何かに”いのち”を与え続ける存在であるかぎり、生きていると言えるのだと思う。

 「風の旅人」の6月号で紹介する屋久島の杉は、倒れた後、腐らずに何年も存在し、多くの生物を養いながら生き続ける。屋久島の森を歩くと、至るところに倒木があるが、青々をした苔でびっしりと覆われ、異なる種類の若木がいっぱい着生し、死物には見えず、生が充溢していることが感じられる。

 人間の場合も、きっと同じなのだろう。

 心臓が脈打ち、呼吸をし、空腹も感じ、動きまわっているのに、生きているという感じがしないとすれば、それは、他の何かに生かされてはいるものの、他の何かに”いのち”を与えている実感が得られないからではないか。

 近年、”営業”の仕事は厭で、”クリエイティブ”な仕事をしたいと思う人が多いようだが、「営業」は、単に物を売ること、「クリエイティブ」とは、物に”いのち”を与えることだと無意識のうちに定義付けていて、自らが生きる手応えを得るために、物に”いのち”を与えるクリエイティブを志向するのではないだろうか。

 もちろんそうした定義は机上のもので、実際の仕事の現場では、”営業”という働きかけを通して何かを活性化させ、”いのち”を与えることも多いし、クリエイティブ系と言われる仕事でも、誰かがやったことの焼き直しのようなことばかりであったり、情報を断片的に扱うだけで、何かに”いのち”を与えるところまで達していないものは多い。

 会社などに入ってバリバリ働くことが人間としての自立であり活き活きと生きることにつながるという幻想と、その権利を獲得するための行動が、戦後、女性解放運動などで急速に広がったが、そうした主義主張には”人間としての自立”や、活き活きと生きる”という状態が、本来どういうものであるか、きっちりと考慮されているのだろうか。

 経済力、地位、名声など、近代人がエゴイスティックに志向してきたものの獲得競争に女性も参加させろという主張と行動は、はたして、本当の意味で、人間としての自立とか、活き活きと生きるということにつながったのだろうか。

 たとえば、社会のなかで様々な”自分探し”を続けて途方に暮れた時、子供を産み、母となって子に乳を与えている時、または、父として家族を養っていると実感する時、それは、他の何ものかに”いのち”を与えていると実感することでもあるだろうが、同時に自分も生きているという実感を得ることがあるだろう。

 生きるというのは、まさしく、他の何ものかに”いのち”を与えることであり、金銭、地位、名声の獲得だけを目的に競争に明け暮れることではない。金銭、地位、名声を獲得した者も、それだけでは生きている実感が得られないからこそ、自分の社会力を活用して、様々な慈善事業に勤しんだりするのだろう。

 生きることは、何ものかに”いのち”を与えることであり、自分は生きているようで死んでいるのではないかという感覚は、何ものかに”いのち”を与えているという関係性を自分の周辺に見出せない状態なのではないか。

 自分の幼子は、”いのち”を与える対象に間違いない。しかし、それだけが自分が生きていることの手応えになってしまうと、子供が成長し、子供自身が他の何ものかに”いのち”を与えることで生きる時になっても、親がそれを阻害する行動をとってしまうかもしれない。自分の子供が大きくなっても、いつまでも、弱く守るべき状態にとどめておきたいという気持ちが強くなるかもしれない。

 それは、おそらく、”いのち”を与える対象を身近なところに求めて、自らが生きようとする親のエゴなのだろう。親のそうした動きによって、他の何ものかに”いのち”を与える機会を奪われていく子供は、生の力を殺がれてしまうのだろう。

 生の力を取り戻すことは、他の何ものかに”いのち”を与える機会を取り戻すことと同一のことだと思う。そして、生の力の減少は、他の何ものかから”いのち”を奪うことと、同一のことだと思う。それゆえ、自らの生の獲得のために”いのち”を与えることに執着して、その相手の生の力を減少させることは、”いのち”を奪うことなのだろう。


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