この世の奇跡

 地球も人間の身体も、そのメカニズムはとても精妙にできている。

 地球上の元素は百種類に満たないが、そのうち人間の身体を構成する元素の数は、主なものだけでも40はあるそうだ。酸素、炭素、水素、窒素など主に大気中に多く存在する元素だけで、人間の身体の96%を占めるらしい。これらは、炭水化物や脂肪などとなって、身体を作ったり、身体のエネルギーとなる。 

 そして、身体を構成する他の無数の元素を足し合わせても、人間の身体の僅か4%ほどでしかない。そして、それぞれの元素がどういう働きをしているのか、わかっているものもあるが、ほとんどは詳しくはわからない。わからないものは、あまり深く考慮されていない。

 私たちは、人体を構成するために必要な「栄養」というものをイメージする時、蛋白質、炭水化物を思い浮かべ、脂肪はエネルギーで、ビタミンを潤滑油のようにとらえる。この4つが身体を構成する主成分であり明確なエネルギー源だから、それらのバランスだけを計算し、足りないものを摂取したり、過剰なものを棄てようとする。

 権威ある人に「蛋白質は身体を構成する主成分だから、良質のものをたくさん摂りましょう」と言われると、誰もが素直に納得する。科学的研究によって特定の元素が人体に有効だというデータが出ると、それをサプリメントとして多く摂取しようとしたりする。そして、有効だというデータが出ていないものは見向きもしない。

 でも、科学的に有効性が判明していなくても、身体のなかに微量でも存在しているというのは、間違いなく何らかの働きをしているということだろう。多ければ大事で、少なければそうでないということでもなく、少なくても十分な働きができる元素があるのかもしれないし、必要量を超えると、逆に毒素になってしまうものもあるかもしれない。

 おそらく、量の問題ではなく、40の元素のバランスの方が、より大事なのだろうと思う。なぜなら、長い長い歳月を経て地球上にある様々な元素を少しずつ繋ぎ合わせて奇跡的に構成されたのが人体であるなら、人体にとって大事なものは、その奇跡的な構成そのものだと思うからだ。その奇跡に対して、人間が頭でっかちになって介入しても、微妙なバランスが崩れてしまう恐れがある。

 私は、たまたま「栄養」のことについて述べているけれど、今日の社会は、これと同じような発想でなされることが多いように思う。

 「主成分」がわかれば、そればっかり増やそうとする。全体のなかで占めるシェアが大きいものを過剰に優遇する。シェアが小さくても有効な働きをする大事なものが見落とされる。一面的な有効性が判明したもの(ハウツ−もの)だけを、一生懸命に摂取し、有効性の判明していないものは、ほとんど相手にされない。全体の微妙なバランスよりも、全体のなかで目につくものとか、大きなエネルギー源とかが重視される。

 しかし、人間の身体は、筋肉とエネルギーだけで成り立っているのではなく、なんだかよくわからないけれど大事な役割を果たしているだろう無数の無機物の絶妙なバランスのなかで生かされている。地球もまた、同じだろう。ならば、社会もまた、そうした摂理に即したものでなけらばならない筈なのだ。

 生きるという言い方をすると、活動したり、新陳代謝を行ったり、熱を発生する有機物のことを思い浮かべてしまうが、そうした思考もまた、生物を構成する主成分である蛋白質、炭水化物、脂肪などを重視する発想の延長にあるものだろう。

 おそらく“生きること”の本当の意味は、そういうことでないような気がする。

 ある一定の“場”において、有機物、無機物を問わず無数の元素が存在し、それらの微妙な関係性によって、その“場”が、それじたいで精妙で形ある秩序を作り出して、自律的に存在していくこと。

 不足していると判明したものだけを取り込んだり、増えすぎたと判明したものを棄てたりするだけでは、全体の絶妙な関係性のバランスは保てない。

 雨が大地にしみこみ、大地のなかの無数の元素を溶かした水が海に流れ込んで、長い歳月の間に、海の塩がつくられる。海水に大量に存在して全ての生物に必須だと判明しているナトリウムだけを主体とする工業塩と、微量ながら絶妙な配合で無数の元素を含む海の塩を、どちらも主成分がナトリウムだからといって同一にみなすことはできない。ナトリウムが多いことは共通でも、他の元素の複雑な構成によって、まったく別のものになっている可能性が高い。

 現在の画一化現象は、主成分が多いものに統一するという発想とどこかでつながっているような気がする。広告PRによって同じものだと教えられ、そういうものばかり与えられて、頭では同じと思いながら、身体で違和感を感じている。でも、頭優先の社会だから、その違和感が無視されている。

 工業塩ではなく、海の塩そのものの元素の精妙なバランスが身体にとって大事であるように、社会で生きていく上でも、頭で必要なものとそうでないものをあれこれ分別して自分に取り込んだり棄てたりするのではなく、全体のバランスをそのまま自分のものにしていく発想が大事なんだろう。

 しかし、それをどのようにしてやればいいのか?

 簡単な答えなどある筈がない。

 この世界の奇跡は、無数の元素(要素)が複雑精妙に関係し合って、形ある秩序を作り出して自律的に存在していくことそのものにあるのだから、その奇跡を自分ごととして、ありのままに受け入れるしかないのかもしれない。


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