総合であり、本質であり、流動であり、ポジティブであること。

 写真でも何でも、一つのことを追求して、どんどん掘り下げていく人を見ると、とてもかなわないなあと思う。自分には、そこまでの情熱はないなあと思う。そこまで一つのことが好きで好きでたまらないという風に、自分にはなれない。

 しかし、一つのことに集中して、ある一定の域を突き抜けている人は、突き抜けた人にしかわからない物の見方や感じ方があり、その見方や感じ方は自分にとって未知であるがゆえに、とても惹かれるものがある。

 何か特定のものを好きであっても、集中の仕方が中途半端な人は、絶えず世間的な物の見方に惑わされていて、けっきょくのところ、どこにでもあるような事を行い、誰かが言っているようなことをコピーして喋っている。そういうことは、それぞれ好きにやればいいことで、あまり関心が持てない。

 「風の旅人」を立ち上げる前、私はビジネスに深くコミットしていた。金儲けに執着していたわけではない。社会の経済原理を遠巻きに眺めてあれこれ言うのではなく、経済原理というものを身をもって知りながら、そこにある様々なパズルをうまく組み合わせること、ただ単にパズルを組み合わせるだけでなく、それが自律的に動いていくように生命を吹き込むという関わりの持ち方に深く興味があったのだと思う。

 私は、ビジネスにコミットしていた時、クレームとかトラブルがあって、それに対応する場合、ドーパミンなど脳内の報酬物質の放出量が増えていたように思う。クレームとかトラブルは、その時点の自分にとっての「未知」であり、「未知」のものに対する対し方を自分の脳内の神経回路に組み込んでいく過程に、興奮を感じていたのではないかと思う。

 具体的には、クレームに対して、誰が書いても同じような常套句の謝罪文を書くのではなく、自分ならではのアプローチで文章を構成して、相手を落とすことが快感でもあった。

 そのようにして膨大な手紙を書いた。それらの手紙は、たとえ苦情への解答であっても、一人一人との固有の出会いを反映したものであった。クレーマーという異常な人が相手であっても、その人がそのように行動する背景が、それはそれで興味深かった。相手のクレームがたとえ異常であっても、こちらの命を取られることがなければ、あの手この手で相手の論点をずらしたり、まったく別アングルから相手の懐に入ることを試みることは、それなりの充実があったし、自分のスタンスによって微妙に変化する相手との間合いを見切ることは、面白いことでもあったのだ。

 そのように様々な方法で「経済原理」に10年ほど深くコミットし、当面の目標であった株式上場という具体的な形にまで至ったことで、経済や企業も一つの有機体のような存在であるという認識に至った。株式上場は企業にとってゴールではなくスタートなのだけど、経済原理という人間が避けて通れない現実のなかで、様々な関係のバランスをうまく取りながらを多くの問題を克服し、存在し続けていくための具体的な戦略や戦術を編み出すという生命体の摂理のようなものを体感するという意味において、それは私にとって一つのゴールでもあった。

 私は、上場に必要な資料のほとんどを独力で学習して書ききった。それ専門のコンサルタントという人がいるのだが、会って話しをして、実際にやっていることを見て、その内容から判断して、彼らが受け取る報酬が多すぎると感じたのだ。はっきり言って、大したことをやっているとは思えなかった。だから自分で作った。かつて誰もやったことがないことではなく、毎年、多くの企業が上場しているのだから、問題はない筈だ。たとえ失敗したとしても、上場に固執しているわけでもないから大きな問題ではない。何でも実際に自分でやってみることが、うまくいくかどうかというその瞬間の損得ではなく、その後も延々と続く自分の人生にとって何かしらの形で生きてくるのだろうと思う。

 株式上場時の経験で一番大きかったことは、アナリストなど業界の専門家と言われる人が、あまり大したことをやっていないということを体感できたことだ。一般の人が知らない業界言葉などで武装することによって、知的で高尚で深遠な世界であるかのように自己演出しているが、実際はそうではない。彼らの多くは、既存のケーススタディの説明はできるけれど、これまで存在しないものを、そういう存在の仕方もあるかもしれないという可能性の含みのなかで思考することができない。つまり未来を切り拓く話しを、自分の言葉で語れないのだ。もちろん、全てのアナリストがそうなのではないだろう。このことは、学者などでも同じなのだと思う。

 そして、もう一つ大事なことは、自分が携わる仕事が初めてのものであっても、情報の集め方さえわかっていれば、今日のような情報化時代においては、どのようにでも情報を集めて自分なりに構成できるということだ。

 これまでの社会においては、既存のケーススタディとか情報をどれだけ多く持つかが優位に立つための条件だった。アナリストでも学者でも、それは同じだ。そして、情報を多く獲得するために、肩書きが大事だったのだ。しかし、もはやそういう時代ではなく、自分に必要な情報をどのように集めるかが大事であり、そのためには、自分に必要な情報が何なのかを直観的に把握しなければならない。

 自分に必要な情報とはいったい何なのか? 自分に必要な情報は外から持ってくるのではなく、既に自分のなかにある。自分のなかに既にある形にならない情報に形を与えるために、適切なフレームを外から持ってくるという言い方の方が近いような気がする。

 自分のなかには、それまで長年続けてきた外界との関わりのなかで、言うに言われぬものがたくさん蓄積している。それらは既に自分にとって、自分の未来に関わってくる情報なのだ。

 おそらく、そうした情報の積み重ねが、私のベクトルを決めている。そこには、自分が育った時代というものも大きな影響を与えているだろう。

 そして、私が生きてきて、今も生きている時代とは、いったいどういう時代なのだろう。

1.専門部分がどんどん枝分かれしていき、専門が異なれば会話が成り立たない時代。

2.ブランド信仰と、そのコピーの氾濫が示すように、物事の表面が価値判断になる時代。3.ニュースの中心はネガティブな話題で、その分析ばかり目にする時代。

4.消費商品や伝達情報など表層は流動的であるけれど、偏差値、収入、速度、性能、売り上げなど数値で価値を決めることに固定的な時代。

5.目先の快感や喜びにつなげる処世的なマニュアルが目立ち、重宝される時代。 

 他にもいろいろあるだろうけれど、私はこのような時代のなかを生きてきて、それらに盲目的に追従して順応できず、悶々と疑い、脱線がちに生きてきたのだろうと思う。脱線しようが、そこに従属しようが、その関わり方が既に自分のなかの形にならない情報になっている。だから、それに応じて、外界のものに呼応する。

 さらに、上に上げた1〜5で、1に関して、二つのタイプがあることを私は知った。

 専門に胡座をかいて狭い所に閉じこもる人と、専門を足がかりにして、もっと広いところに出ていこうとする人だ。

 後者の人は、専門語以外の言葉を持っており、その言葉によって専門以外の人と通じることができる。

 私は、彼らのように一つのことに集中することはできないけれど、彼らの行っていることの凄みはわかる。

 私は、現在、たまたま「風の旅人」という雑誌を作ることに携わっているけれど、物を作るというよりも、場を整えているという感覚の方が強い。

 私は、雑誌作りの専門家でもないし、他のどんな専門家でもない。私は、自分の専門能力によって何かを作りあげようとしているのではなく、自分のなかに蓄えられて未だ形になっていない記憶(情報)を輪郭付けていくために、「場」を用意して、優れた専門の力を持っている人の力を借りているといった感じなのだ。

 自分のなかに蓄積されたものは、既に決まっている。自分の中に在るものだけを自力で輪郭づけるのであれば、あらかじめ自分のなかに在るものを超えることができず、やればやるほど窮屈なものになる。自己表現(自己主張)のための表現とはそういうものだろう。

 しかし、自分の中に在るものが外のものと呼応して、その関係によって形となって現れてくるものは、自分の想定を超える自由の余地があり、その驚きが喜びになる。まさに、運命は決まっているけれど、自由なのだ。

 「風の旅人」を作るための場づくりにおいて、私は、総合であり、本質であり、流動であり、ポジティブであることを大事にしている。人から抜きん出た専門の力を持たない私一人の力でそういうことができる筈がない。しかし、それを実現したいと本気で望むならば、優れた専門の力を持つ人が自然と連携できる「場」を整えることに努力すればいい。そういうことであれば、専門の力を持たなくても可能だと思う。自分の思いがあれば、その思いの一部でも通じ合わせることができる相手をみつけて、自分の役割を定め、連携していくことが可能な時代なのだから。


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