風を感じ、風を通すこと

 先週、イッセイミヤケのクリエイティブディレクターに今年度から起用された藤原大さんと会って話しをする機会があったのだが、幾つか興味深いことがあった。

 現在、彼は、2008 SPRING&SUMMER COLLCTIONを発表している最中で、そのテーマは、THE WIND「風」だ。

 藤原さんは、「風の旅人」を愛読してくれているが、「風」というものの捉え方で、私と非常に近いものがあった。

 「風」は息吹きであり、家でもそうだが、人間のなかを「風」を通り抜けることで、空気が入れ替わり、いのちが活性化する。

 「風」の通らない家も人間も、空気が澱み、いのちが沈滞する。

 家のなかを「風」が通り抜けることはイメージしやすいが、人間のなかを「風」が通り抜けるとは、どういうことか?

 管啓次郎さんの著書『ホノルル、ブラジル』で、ナバホインディアンの神話の紹介があり、指紋も頭のつむじも「風」であって、人間は風の容れ物で、風が吹いてくることによって命が吹き込まれる、指紋があり、つむじがあることで、人間は、空も地面にもつながることができる、それらが無ければつるつると滑ってつながることができない、という思想のことが語られていた。

 私がイメージする「風」というのは、自分のなかが揺らぐもの。緊張と緩みの融合した感覚を与えてくれるものだ。

 実際の「風」もそうだし、出会う人間、書物、風景など様々なものを通じて、同じような感覚を得ることがある。

 藤原さんとは、この「揺らぎ」とか「緩み」と「緊張」の関係について共感するところが多くあった。実際に彼が作っている服も、そのことが強く意識されているのだと言う。着ていることを忘れさせるほど肌に合って楽なのだけど、シャキッとする感じもあり、アンテナの感度が良くなるような感覚だ。

 男女関係をはじめとする人間関係も、そうした感覚を纏うことによって、歪んだストレスが生じず、気の流れがよくなり、創造的な日々になる。

 現代社会は、ストレスが多いということで、楽な物や関係が求められる。しかし、「楽さ」を求めるばかりだと、よけいにストレスが増えることに多くの人は気付いていない。 適度な緊張感があることで、私たちは世界に一歩踏み込むことができ、一歩踏み込むことで、状況変化をポジティブに受け止めることができる。緩みっぱなしだと状況変化に対して腰が重くなり、ネガティブになってしまう。それゆえ、「楽さ」ばかりを求めてしまうと、ちょっとした状況変化が全てストレスに感じられる可能性があるのだ。

 緊張と緩みを適度に兼ね備えた状態が、「揺らぎ」であり、それが「風」を感じている状態なのだと私は思う。その状態こそが、ストレスから遠ざかる方法なのではないか。

現代社会は、変化や刺激は過剰にあるが、根本的な部分で、揺らぎをどことなく否定的に捉えているように思う。現代の価値観の基盤を崩したくないため、揺らぎが生じても、それを代償行為によって誤魔化してしまう。何か固定的な考えに自分を縛り付けることで、そうした揺らぎから逃れようとする。でも、それが、「風」を遮るということなのだ。その固定的な考え(風を遮ること)が、自分をとても不自由なものにしてしまうことを知らずに。

 実際には、揺らぎはとても大切な身体感覚だ。前後左右への揺れを禁じると、物の高さ感覚もわからなくなると聞いたことがある。高さ感覚がなくなると、たとえば椅子に座るという行為すらおぼつかなくなるそうだ。

 また、立っている時、揺れを感じると、瞬間的にバランスをとろうとして身体の力を入れるのではなく、瞬間的に緩めながら緊張を保つ。揺らぎにともなう緩みと緊張の絶妙なバランスこそが、環境変化への最適の対応方法ということなのだろう。

 自分と世界との間で、自分が何かに居着いてしまっていないかぎり、自分が動いていくと自分と世界との間に揺らぎが生じるのは当たりの筈で、揺らぎそのものを素直に受け入れる気持ち(風に当たること)になってこそ、世界が豊かに見えるのだろうと思う。

 藤原さんの提案するコレクションのなかで私が一番関心を持ったのは、海の青と、太陽の色に対する取り組みだった。

 海の青などというと、ファッション世界では、エーゲ海とかタヒチとか、既に氾濫するイメージを借りたステレオタイプの形容詞で括られることが多い。

 それに比べて藤原さんは、実際の海そのものと向き合って生まれる感受性によって、色を見出していくという試みを行っている。

 具体的には、八丈島の海に潜り、幾つかの階調の青で染められた無数の生地を水中に浸す。海の深さによって、光の届き方によって、海の色は微妙に違ってくる。それぞれの深さで異なる青の階調と、それぞれ異なる青色に染められた生地の階調を見比べなから、その重なり合いを確認しながら、青を採取していっているのだ。

 そのように採取された青は、作り手にとってリアルなものだ。そのリアルさを追求するために、おそろしく手間暇とコストをかけている。そこまでしなくても、海の色とはこういう感じだろうと適当にイメージをつくって、それなりに演出し、「ISSEY MIYAKEが提案する海の色」などと訴求すれば、ブランド力によって、それなりに評価される可能性もある。今日の社会に溢れる規格品は、ほとんどがそのような虚飾だ。自然をモチーフにするなどといっても、既に頭のなかに出来上がったイメージをコピーするだけのことが、なんと多いことか。

 太陽の色に関しても、藤原さんは、江戸時代に人気のあった八丈島黄八丈という美しい着物で使われている天然の色を現代ファッションに取り込む試みをしている。この色は、太陽の光をいっぱいに受けて育ったイネ科のコブナグサから採取するもので、気品のある黄色に輝いている。その色を海のブルーの階調のなかに、ポイント使いしている。ニーズが無いということで廃れていく伝統的な技術の継承者が、現代の最先端のファッションのなかに生き残る道を見出すことができれば、これほど素晴らしいことはないだろう。

 海の色にしろ、太陽の色にしろ、なぜそこまでのことをするのかという問いに対する藤原さんの答えは明解で、「物作りに携わるスタッフを育成するためだ」と言う。

 育成するというと、技術や知識のことばかりが重視される。デザイン事務所や編集部に就職しても、(最近では、料理屋でもそうだろうが)、すぐに「作り方」を教わろうとする人も多い。何でもいいから形ある物を実際に作ることで、作っているという満足感を得る。そういうことを、クリエイティブだと勘違いする人も多い。だから、就職しても、なかなか制作に関わらせてもらえないと、不満に感じるらしい。

 でも違うのだ。頭であれこれ小賢しく考えることをアイデアと称し、ちょっとした思いつきをセンスだと称し、そのアイデアやセンスに添って手先を動かして作られる物が世の中に氾濫しているが、そうした物が失ってしまった大事なことがある。それは、生身の自分が世界と深く関わっていく時に生じる呼応力だ。その呼応力というのは、心のなかに吹く風のようなものであり、それを”いのち”と言いかえてもよいだろう。

 心のなかに風を通すことができる人が、人の心に風を通すことができる。

 人を育成するというのは、そこまでの意味を持つのだと私は思う。そのことが疎かにされて、技術や知識のハウツーばかりにしか目がいかず、安易な物ばかりが作りだされるから、世の中は風の通らない部屋のように澱んで息苦しくなっている。

 学問、出版、アートなど、本来は世界との呼応が目指されるべき現場が、風が通らず閉塞して沈滞した状況になっているのは、既得の価値の上にあぐらをかき、その価値をコピーすることを技術や知識の伝達と称し、そのことばかり重視するようになっているからだろう。

 藤原さんは、風の旅人で創刊からずっと連載いただいていた白川静さんを尊敬していると言う。現代と向き合って生きながら古代にそのつながりを求める姿勢そのものが、「現代性」とか「最先端」などという膠着した枠組みで遮蔽することなく、常に新鮮な風を自分のなかに通す姿勢の表れなのだと思う。



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