人間の命

 小野啓という若い写真家がいる。彼は、日本国中の高校生の写真を撮っている。 

 フライヤーを刷ってショップに置いてもらったり、雑誌の募集欄に掲載依頼をして、一般の高校生に呼びかけ、メールで連絡があった人に直接会いに行って、それぞれの学校や、それぞれの街の風景の中で撮影を行っている。

 「自分を撮って欲しい」と連絡してくる高校生の動機は様々だ。なかにはモデルに興味がある人や、高校生活の思い出を残したいという人もいる。

 そういう動機ではなく、心の中から切実な叫びを訴えてくる人もいる。

 家庭が壊れ、家でののしられ、学校でいじめられ、自分自身を欠陥だらけだと悩み続ける少女。自分は何も取り柄がないけれど、その代わりに、周りの冷酷さに潰されそうになりながら抱えてきた悔しさや絶望がある、そんな痛みだけでも写真に残したい、それが残せたら、それを宝物にすると訴える少女。

 少女は、自分のことを美しくないと言う。しかし、小野さんが撮った彼女の眼差しは透き通って、危うく揺らいでおり、今という一瞬を繊細に震えながら必死に生き抜いていることが伝わってくる。

 小野さんが撮った一人一人の少年少女と向き合っていると、とても親近感を覚え、気持ちが入り込んでいく。

 私は、幼年期〜少年期を、大人への発展途上という風に考えていない。

 壮年期を最高点と考え、それ以前を準備期間、その後を衰退期間と捉える見方が大勢だが、そうではなく、その時点ごとに、それぞれの方法で生は完成していると考えている。

 壮年が最高点などというのは傲慢であり、愚かなことだ。そういう考えは、「社会適応」という側面だけを重視するがゆえのことだ。もちろん人間にとって社会適応というのは大事なことだが、人生はそれだけではない。社会適応にかまけすぎて、要領の良さや賢しらな小細工ばかりが上手になって、それを成熟などと言っているうちに、肝心の生命力を失ってしまうということもある。

 人生とは、社会適応する時間と空間なのではなく、人としての「命」を全うする舞台であると捉え直せば、幼年期も、少年〜青年期も、壮年期も、老年期も、等価だろう。

 ならば、その「命」とは何か?

 故白川静さんが、「風の旅人」の第15号で下記のように書いている。

 「命は「いのち」とよみ、「生の霊」の意であろうとされている。「い」に「生き、息吹き」の意があって、絶えず燃焼して自らを充足し、発展し、変化し、創造する働きのあるものをいう。」

 その時々の置かれた条件のなかの困難と格闘し、どれだけ必死に堪えて生きていくか。それが人命を全うするということだと思う。

 社会適応ばかり達者になって、必死さもなく困難を手軽な代償行動でごまかすことばかり上手くなった壮年期よりも、青少年の揺れ動く心の方が、人命を全うしているのかもしれない。 

 現在、私は、「風の旅人」の第29号(12/1発行)の準備をしている。

 テーマは、LIFE PRINCIPLE〜有為自然〜だ。

 小野さんの高校生も、昨日の日記に書いた小関さんの九十九里浜の写真も、その中で紹介していこうと思っている。

 LIFE PRINCIPLE(生命原理)を、「有為自然」としているのは、私なりの理由がある。

 老子が説く「無為自然」は、自然のままで作為のないこと。それに対して「有為自然」は、様々の因縁によって生じた現象、また、その存在である。

 これに関して、故白川静さんが説かれたことを私なりに解釈して、次のように思う。

 人の命は、もともとは天命(神意)であり、それを人間如きが恣意的に変えることなどできない。多少の寿命が延びようとも、死ぬときは死ぬし、食べなければ死ぬ。そうした神意は、遺伝子に組み込まれている。しかし、その遺伝子が全く所与的なもので、何らの変化も与えられないものであるならば、生物の形態変化は起こらない。生物の形態変化は、生あるものが生きているかぎり必ず邂逅する様々な因縁によるものだろう。白川さんは、その因縁のなかでの生の形態変化を、生あるものが潜在的に持つ強烈な願望だと言う。命は神意であり、すでに予定されているものだろうけれど、そこに生活者の意志が加えられる余地も存在し、もともとは所与的な命を主体的なものに転換することは可能だと言う。ただし、その前提として、自然の秩序はあらゆる生物の世界に及んでおり、そこに大調和の世界があり、人間の思考は、いくら精彩を極めようが、この大調和の世界から決して出ることができないということを知っていなければならない。すなわち、大調和の世界のなかで運命は既に決まっているということと、所与的な命を主体的に転換する自由はあるという両極のなかを揺れ動きながら活動していくことが、命を帯びるということなのだ。

 私は、自らの世界観、人生観として、運命論に支配されている感じの無為自然よりも、運命そのものを知りながらも、それに安易に従属するだけではなく、大調和の世界をはみだすことはできないけれど、因縁に応じて形態変化を起こしていく可能性があるとする有為自然の方が、納得感がある。

 そして、そのように「生」を主体的なものに転換しようとする意志や姿勢そのものもまた予め命に備わったものであるという考えに賛同する。

 そのように必然と偶然、運命と自由の間で揺れ動く命のダイナミズムこそが、LIFE PRINCIPLEだと思っている。

 その生命原理に従えば、自らの生を主体的なものに転換しようとする意志や姿勢を放棄することもまた、命に添わないことになる。

 そして、それが命に添わないことだと多くの人は自分の心身で知っているのだ。だからこそ、自らの生を主体的なものにしようとする意志や姿勢を圧し潰そうとする力の前で、人は苦しむ。その苦しみは、エゴから発しているのではなく、命そのものの叫びなのだと私は思う。そうした命の叫びを狡くごまかす術を知らない青少年は、自分と現実の間で引き裂かれながら、揺らぎ続ける。その揺らぎある状態こそが、まさに命ある状態なのだと思う。知識として観念としてそう思うのではない。小野さんの写真に捉えられた高校生の瞳が焔のように揺らいでおり、それが命の蠢きであることが自然に伝わってくるのだ。

 人間が生き続けていくために、社会適応は必要なのだろう。しかし、忘れてならないことは、社会適応することだけが、”命”なのではないということ。

 絶えず燃焼して自らを充足し、発展し、変化し、創造する働きを失ってしまっては、たとえ生はあっても、命はないということになる。

 故白川静さんは、「風の旅人」の15号でこのように説く。

 「生が外ならぬ命によって絶対に規定されているという、存在の本質的な構造を無視して、恣意的な生活が可能であるとするのは、現代の人々の一の妄想にすぎない。」


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