感覚を表現するとは!?

 写真の売り込みなどにおいて、「感じたまま作品にしてみました」とか、「難しいこと考えずに、感覚に添って好きなことやりました」とか、”感覚”とか”感性”を強調する人は多い。

 感覚は自分の中に間違いなく存在するものだと考えていて、それに添って作品を作ることが、自分を正直に表すものだと思っているのだろう。

 しかし、自分の感覚というものは、自分では確かだと思っていても、知らず知らず周りの雰囲気に影響を受けやすいものだ。

 だからといって、感覚を捨てて理論に走ればいいということではなく、まずは、自分の感覚が本当に信頼に値するものになるまで、何かしらの努力を行う必要があるのではないかと思う。

 しかし、なぜか表現行為に携わろうとしている人は、自分では努力しているつもりになっていて、自分の努力が足らないと感じている人は少ないようだ。

 世界陸上に出場するような人と、市民マラソンランナーだと努力の程度がまったく異なると理解できても、超一流と評価される写真家と、世間でまったく認められていない自分の努力の違いを、きちんと理解できない人が多い。努力の差ではなく、センスの差、ひどく鈍い場合は、自分の写真とジャンルや種類が違うだけだと思っている人もいる。

 そういう人は、自分の感覚が絶対だと思っているから、「自分の表現物を見る人が何をどう思おうが構わない、価値観は人それぞれだ、だから自分さえ信念持ってやっていればいいのだ」という感じで、とても鼻息が荒くなる。

 もちろん、人の言うことをいちいち気にして制作する必要なんかない。しかし、一度でいいから超一流と言われる人の仕事ぶりを見る機会があればいいのにと思うことがある。

 仕事の取り組み方一つにしても、大きな違いを歴然と知ることになるだろう。

 何よりも、自分が自分の感覚に従って作ったと思うものが、本当に自分の感覚を的確に表しているものかどうか、検証し、内省するスタンスが、まるで違う。自己評価の厳しさは、超一流とアマチュアでは雲泥の差がある。アマチュアは自分に甘いのだ。

 自分に甘いから、自分の感覚が、その時ごとに曖昧で不確かであることに対して認識が不足しており、いつだって自分の感覚に従ってやればいいという気になっていることがある。

 仮に、その人の感覚が不確かでないとしても、感覚を再現するためには、相当な技術や知恵がいる。

 感覚を表現するのに技術は関係ないと勘違いしている人もいる。感覚を表現するのだから、技術ではなく、フィーリングで作ればいいと思っているのだ。

 言葉による表現の場合は、感覚と表現の間に、自分では思うように扱えない言葉が入ってくるから、その言葉をうまく扱える技術を身につけるために修練が必要だと直観的にわかる。好きかってに書くことも可能だが、言葉の場合は、その言葉がその人の感覚を的確に伝えているかどうか一目瞭然なのだ。論理を言葉にすることよりも、感覚を言葉として表すことの方が遙かに難しいと思う。

 しかし、写真の場合、昔の写真機と違い、思うように扱えないカメラは今ではあまり無いから、感覚と表現を簡単につなげると錯覚してしまう。絵の場合も、抽象的な物の場合、絵筆を操る技術の無さをカムフラージュできてしまう。

 それゆえ、絵とか写真の場合、言語表現と違って、「自分の感覚を表現しています」と堂々と宣言できてしまうのだ。

 しかし、写真の場合などは、思うようになるかならないかというのは、単に写真機だけの問題ではないだろう。

 とりわけ重要なのは、”光を読む”という技術だろう。物事に向き合う際の自分の感覚を忠実に再現できる”光”の追求。さらに、物の存在の仕方にしても、自分の思うようにはならない。だから、最善で最高のタイミングを待ち、最善で最高の角度とか構図とかもシビアに求めなければならない。

 どれか一つが叶えばよいのではなく、その一瞬に総てが最高の状態で揃わなければ、自分のなかに生じた感覚を的確に表すものにならないだろう。

 そのためには、いろいろなアプローチで、撮って撮って撮りまくり、そこに表れたものを厳しく評価し、到達できていない原因を求め、何度も何度もトライし続けるしかない。絵だって同じだろう。自分の感覚と本当に呼応するものを表すためには、描いて描いて描きまくるという自分にとっての厳しい修練が必要なのだろうと思う。一流のマラソン選手のように。

 さらに言うなら、走るだけで満足な市民ランナーと違い、一流ランナーは、不本意な自分をさらすことに対して、非常に情けなく、悔しいと思う。

 しかし、参加することに意義ありという感じで、仕事として不完全なものを人に見せることを、あまり恥だと思わない人もいる。中途半端な仕事というのは、自分も、その対象になったものも貶めることになるのだけど、そのことがピンとこないようなのだ。

 それどころか、中途半端なものを人に見せて、その表現に好意をもってくれないと、「人それぞれの価値観だから・・・」といいながら、すごく不満そうな顔をする人がいるのだけど、そのように自己愛ばかり強い人や作品との出会いは、バイオリズムが低下して、とても消沈してしまう。

 作品を見るのは、バイオリズムを低下させるためではなく、何らかのエネルギーをいただくためなのだ。作品のエネルギーは、表現者のエネルギーでもある。

 自分に修練を課さない人は、相対的にエネルギーが低いのだと思う。そういう人の表現が、人にエネルギーを与えることは無いのではないかと思う。

 人にエネルギーを与えることが目的なのではなく、あくまでも自分の感覚を表すことが目的だと主張する人もいるだろうけれど、身体感覚でもそうだが、感覚というものは姿勢が崩れると鈍ってしまう。

 自らの感覚を確かなものにするためには、自らの表現に対する姿勢を厳しく見つめ直すことから始めなければならないのだろう。そのことを怠って、「感覚は言葉にならないのだから・・・」と自分の感覚に胡座をかく表現姿勢を、私は信じることができない。