社会の常識と表現

  横浜美術館で開催されている森村泰昌展が面白かった。近代というのは、自意識の時代だろうと思うけれど、自分のなかの自意識も含めて、笑い飛ばしてしまうような真面目な迫力と、緻密さが凄かった。

 有名画家が描いているモデルになりきって画面のなかに入ってしまうという発想はとてもユニークだけど、ただ奇をてらっているだけではなく、そこに至るまでの基本能力が凄い。発想だけで表現しているのではなく、物造りの基礎がとてもしっかりとしている。そして、しつこいまでのエネルギーがある。

 基本とか基礎といった物造りのための常識をしっかりと守りながら、常識の土俵から大きく跳躍しているのだ。跳躍という感じの、感性のすごいバネのようなものを感じた。

 

 ところで、社会の常識というのは、それがなければ社会が成立しないのだから、それを守ることは必要なことなのだろうと思う。

 しかし、常識というものは、だいたいにおいて固定している。それに対して、生きていくことは、流動的な変化に対応していくことだ。古く固定した常識で新しい状況の総てに対応していくことは不可能だ。だから、新しい状況に対するふるまい方は、自分で身につけていくしかない。

 常識は大事なのだろうけれど、変化し続ける総ての状況に対して古い常識を当てはめていこうとする態度が問題なのだ。それが問題だと意識していても、新しい状況に対するふるまい方を手探りしながらでも求めようとしないと、古い常識に頼らざるを得なくなる。そのようにして、本来は流動的である筈の自分の生が、固定化し、流れが止まってしまう。流れを止めると、よけいに、新しい”ふるまい方”に対する躊躇や怯えが生じてしまう。

 常識を守りながらも、自分のなかの流れをとめないようにするためには、いろいろな状況に対して、わかったつもりになってしまうのではなく、自分の感受性を開いておかなければならない。

 自分の感受性を開いておくことは、常識的な答えを当てはめることができない迷路のなかで、様々な軋轢とか葛藤を抱えることにもなる。軋轢を感じながら足掻いているうちに、自分のなかに自分にしかわからない質感ができてくる。その質感こそが、その人固有のものだと思う。

 ”本当の自分探し”などという言い方がされるが、様々な軋轢を重ねながら自分の心の中に蓄積していく地層のようなものの質感こそが、その人自身と言えるものではないかと思う。

 よく、「難しく考えずに、自分の直観とか感覚に従えばいい」などと言う人がいるが、難しく考えることもまた、その人自身の地層を重ねることだと思う。

 何も考えず、悩みを適当にごまかして、世間の価値観に対して簡単に迎合しながら生きていると、その人のなかにある”感覚”は、たいていの場合、世間の様式をすりこまれたものとなり、自分では自分の感覚だと思っていても、実際は世間のバイアスにすぎないことがある。それゆえ世間の価値観が変われば、自分の感覚も簡単に変わってしまう。それを繰り返すうちに、自分の感覚がわからなくなってしまう。

 自分の固有の感覚というのは、その場かぎりの直観ではなく、自分のなかに育っている固有の質感のことだと思う。その質感は、想いが強ければ強いほど大きくなる葛藤や軋轢が地層のように積み重なって生じるものだ。

 優れた芸術家が直観で制作するという時は、その質感に従っているということなのだと思う。そういう人の作品は、常に直観で作っていながら一貫性がある。

 芸術家がそう言っているからといって、「直観」を真似たところで、自分のなかに、他の人には決してわからないような、しつこいまでの想いのなかで育まれた独特の質感がなければ、まったく違うことになってしまう。

 表現したいという気持ちはあるけれど、何をどうすればよいのかわからないとか、行動に結びつかない場合は、自分のなかの質感が弱いゆえのことだろうと思う。そういう時に、無理矢理作ると、自分の質感に応じたものではなく、世間のバイアスをなぞる感覚で、作ってしまうかもしれない。

 写真表現などの場合、質感の地層のようなものがあってはじめて、その地層に応じた、光をはじめとする様々な読みとりが必要になるのだろう。だから、光や構図を意識する以前の問題として、自らの表現の大地の地層を厚くし、肥やすことが先決だ。

 その方法は人それぞれだろうけれど、人に言われたことをなぞるのではなく、自分ならではの想いを強くもって物事にしつこく取り組み、そのために生じる激しい葛藤なくして、その人の表現の地層は厚くならないのではないかと思う。

 薄い地層で、痩せた土地なのに、”感覚”とか”光”とか”構図”とかを偉そうに言ったところで、そこからできる作物は、とても不味いものになってしまう。

 心の準備ができていれば、種を蒔くだけで作物はおいしく育つ。

そして、おいしい表現というのは、世間の常識で片づけられない”現実”に対して葛藤や軋轢を抱えながら生きる私たちの、不確かな状況のなかでの自分ならではの孤独で危うい”ふるまい”を、下支えしてくれるエネルギーに満ちていて、新しい可能性(新しい秩序)のようなものを垣間見せてくれるものだと思う。