生物と人為

生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)が、とても面白かった。最後の一歩手前までは、読みながら、ワクワクした。

 『生命』というものを、人智の及ばない超自然的な抽象的なものとして崇めるのではなく、そのメカニズムを、現時点での人間がまだ認識できていない物理的なふるまいとして解明していこうとするスタンスが、とても刺激的だった。

 生物進化に関しても、「ランダムな突然変異があって、これまでと異なる存在の仕方をするものが生まれ、その新種が環境変化なかで適性を発揮し、生き残っていった結果である」という単純なまとめ方ではなく、あらかじめ一定の物理的枠組みと物理的制約があり、それにしたがって構築された必然の結果であるとの認識から、複雑なジクソーパズルを組み立てていくように、進化も含めた生物の動的な構造を解き明かしていくというスタンスの福岡さんの文章は、その前方に未来の新しい認識が横たわっているような予感があり、ときめきを感じた。

 とりわけ、生物活動のような熱運動を重ねれば、ふつうはエントロピーが増大 (熱は高いところから低いところに流れる)し、必然的に物質が拡散して一様に広がって平均化し、総てが均一になることで反応が生じなくなる状態(エントロピーの最大、すなわち死)に向かっていくのだけど、簡単にそうならないように、生物は、拡散に身を任せるだけではなく、一度獲得した秩序がその秩序自身を維持していく能力と、秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っており、その方法の物理的な解明に接近していくあたりは、とても興味深かった。

 そして、その秩序維持の方法として、

1.秩序全体の構造は維持しながら、その構造を構成する物質が損傷とか欠陥を生じたまま中にとどまらないように全ての物質を高速で入れ替えていくこと。

2.構造をつくるための物質が何らかの理由で失われた時、それを代替えで補う新たな物質を、新たな反応による新たな組合せで作るために、生物現象にはあらかじめ様々な重複と過剰が用意されていること。

3.そして、生物現象に必要な秩序の精度を高めるために、ブラウン運動のように常にランダムに動いている一つ一つの粒子を莫大な数を集めることで全体として「平均的」な方向性を持つふるまいに統一し、それでも平均から外れるものがあっても、全体の数を増やすことでその確率を減らし、平均に対する影響を最小限にすること。

 といった生物の戦略は、分子というミクロレベルから、私たちの社会や日々の営みにおける”ふるまい”へと相似形で連なっており、ミクロの研究でそうしたことが次々と明らかになるわけだから、その解明がもう少し進めば、私たちが生きる人間社会全体の動的な秩序構造を手中に収めることができるような気がしてくる。

 しかし、エピローグになって、福岡さんの語りは、トーンダウンする。以前に読んだ狂牛病関連の本もそうだったが、スリル満点の展開で最後の方までいくのだけれど、最後のところで、生物化学者でありながら、自らの科学的探究も含めた”人為”というものに対する懐疑、反省、批判という展開になる。

 『生物と無生物のあいだ』の最後で、子供の頃、好奇心に負けて孵化する前のトカゲの卵に小さな窓をあけて中を観察した結果、可愛いトカゲの赤ちゃんが外気に触れてしまい、徐々に腐りはじめ溶けてしまったという経験が書かれており、一度限りの取り返しのつかない行為によって、もう以前のように戻せないということが自分にとってのセンス・オブ・ワンダーとして宿り続けているということが書かれている。

 生物現象は、動的な平衡をとりながら時間軸の上を一方向にたどりながら折り畳まれていく。それは決して逆戻りできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みである。そして、一瞬ごとの秩序の折り畳まれ方は、複雑精妙であるがゆえに、本来そこに入るべきものが擬似的で不完全なものに取って代わられる方が、その不完全に合わせて新たなる組合せが増幅していくので始末が悪い。本来そこに入るべきものがないのであれば、無いままの方が、そこに入るべきものを秩序全体に満ちる力によって別の方法で編み出すことができるということがわかっている。

 この擬似的で不完全なものとは人為だ。福岡さんは、そう考えているだろう。

 だから、本の最後にこのように結ぶ。

 「私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述することい以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。」と。

 この言葉は、クローン技術をはじめ、分子生物学の最前線における「自然界への人為的介入」に対する異議申し立てでもある。

 この前の狂牛病に関する本も、擬似的で不完全な人為が生物活動を歪めてしまい、それが人間に跳ね返ってきているのだという、科学的態度を貫いてそれを知り尽くす人が、科学の現時点の限界点から人間社会に対する警鐘を鳴らす形で終わっていたと記憶する。 

 しかし、現代の猛スピードで暴走する人為を止めるために、科学者としての福岡さんには、科学の最前線を知らない宗教家でも言える「自然の前に跪くこと」を説くのではなく、科学の最前線からさらに前に進んだところにある思考で、そこに至った瞬間、軽々と現代科学を超えるものを目指し、そこに至って欲しいなあという気持ちが残る。

 人ごとのように言うけれど、本を読んでいる途中、この人ならそういうことができるのではないかと、本当にワクワクしたのだ。

 「自然の前に跪くこと」という言葉が悪いのではない。しかし、この言葉によって現代の暴走者たちは絶対に立ち止まらないということはわかる。もちろん、大きな災難が自分にふりかかればやめるだろうが、それからでは遅いのだ。

 彼らが暴走をやめるとしたら、それは、新しい思考が発見されることによってだろう。

 その思考は、地球のまわりを太陽がまわっていると信じた人々が、その認識にもとずく証拠品を身のまわりに集めて思考を強化していた時、少しずつその認識を裏切る証拠が増え、太陽のまわりを地球がまわっていると考えた方が筋が通るといった形で発見されるものでないかと思う。

 人間の身体も脳も、自然の外から持ってきたものではなく、自然界の中から、不可逆の時間の流れの中で、物質の一つ一つがその時々に必要な相手を見つけて結びついたものであり、自然の一部だ。だから、人為もまた自然の一部だ。

 無生物も含む自然界全体にとって、人為は何ら問題はない。人間が何をしようが、エントロピーは増大し、熱は拡散し、全体に均一化していく。総ては星雲のなかの塵がガスになるのであって、そのプロセスが微妙に異なるだけだ。

 だから、人為が害を与えるのは、自然ではなく、生物界に限定される。

 しかし、総ての人為がそうなのではないと私は思う。

 人間の人為もまた、生物的なものと、無生物的なものに分けることができるのではないだろうか。生物的な人為とは、単純に環境保護を叫べばいいということではないだろう。環境保護メッセージを見る方や聞く方が、「またかあ」と食傷気味に受け止めるような状態になるようなものは、すでにエントロピー最大化の無反応(思考停止)状態で、無生物化しているということだ。

 福岡さんは、この本のなかで、「生命とは、動的平衡にある流れである」と定義している。

 無生物にとって自然な状態とは、流れながら拡散し、エントロピーの最大化に向かっていって、やがて運動を停止させることだ。

 それに対して、生物にとっての自然な状態とは、エントロピーの最大化を防ぐ戦略と具体的方法を駆使しながら、動的平衡を保とうとすることなのだろう。

 言いかえれば、エントロピー最大化(平均化、均一化によって反応がなくなること)への不可逆的進行に抗う戦略と具体的方法を持たないものは、生物ではなく、無生物だということにならないだろうか。

 そうすると、宇宙全体に目を向けても、超新星が爆発して散り散りになっていくエントロピー増大の無生物的プロセスもあるが、それが次第に集まって星や銀河という秩序をつくり、その秩序が秩序を維持するためのシステムを生みだしていく生物的なプロセスもあることがわかる。

 (注:生命を「生物」の側とだけ結びつけて考えることが現代の趨勢だが、生物的プロセスと無生物的プロセスの全体を統括する体系が生命だろうと私は思う。実際に、私たちの身体のなかにおいても、物質レベルの無生物的プロセスは頻繁に繰り返されている。ただ、生物化学者である福岡さんの本のなかでは、生物現象=生命として記されている。)

 そして、人為もまた、エントロピーの増大に対して、なるがままに委ねた無生物的なものもあれば、生物的に複雑精妙な動的平衡状態をつくり出せるものがある。

 どんな生物の行為でも、生物的な側面と、エントロピーを増大させるままの無生物的な側面がある。しかし、それらは、生物界全体の動的平衡を保つメカニズムのなかで、生物的存続を維持するための修復が可能な範疇で行われている。

 それに比べて人間の脳がつくり出す無生物的行為は、桁違いのスケールなのだ。

 生物の仲間のふりをした無生物的人為というウイルスが生物界に侵入し、そこで相互作用を進めることで生物の本来の在り方を歪めていく。そして、生物界全体が少しずつ無生物になる。そういうプロセスを、人間は押し進めている。

 そのプロセスに何の疑問も持たずに受け入れていくのは、人間の無生物的な側面であり、それに不安を覚え、困ることになるのは、人間の生物的な側面だ。人間の脳がつくり出す妄想部分は何も困らないかもしれないけれど、生身の身体は確実に困ることになる。

 その流れを変えるためには、上に書いた「エントロピー最大化に抗って動的平衡を保つための生物の具体的方法」に添った(具体的方法はそれ以外にもあるだろうが)、”人為”が必要なのだろうと思う。

 人間が昔から行ってきた自然に対する”手入れ”などは、とても生物的な人為だ。

 生物化学者の仕事は、生物の複雑精妙な存在の仕方をさらに解き明かし、それを、地球上の新しい人為に結びつけていくための橋渡しをすることなのだろうと思う。

 実験のためにマウスを殺す行為そのものを指して、生物的か無生物的かを問うのではなく、エントロピー増大に委ねるままの行為(ただの殺戮)か、それを食い止める秩序作りを目指しているのかどうかで、判断すべきなのだろうと思う。