生物として働くこと

 いろいろ考えているうち、「生物」と「無生物」を分ける一番大きなポイントは「相補性」ではないかという気がしてきた。

 生物は、ジクソーパズルのように、形の違うピースが、互いに欠けた部分を補い合うことで成立している。それが平面ではなく、時間と空間を合わせた4次元的に。

 無生物も生物も、物質が組み合わさって形を作っていくことは同じだ。

 しかし生物的活動は、均一に物質が重なって結晶化していく無生物と異なり、一つ一つの形が異なる蛋白質が、自分に最適な相手を見つけて組み合わさっていくことで成立する。すなわち、組み合わさるべき物質が、組み合わさるべき場所で、組みあわさるべきタイミングで組み合わさっていかなければならないのだ。そうならないと、物質は生物としての働きに参加できない単なる物質で終わり、そのように生体サイクルから外れた物質が沈殿していくと、全体の生物的機能も歪め、死んでしまう。

 自分にとって適切な相手を見出すこと、場所とタイミングを間違わないこと。それを厳密に行うことは、自分という存在を他に取り替え不可能なものにすることでもある。

 場所もタイミングも相手も選ばずに組み合わさっていくことは、自分という存在を、無生物の結晶のように他に取り替え可能なものにしていくということなのだろう。

 生物的な働きとは、自らに欠けたところがあるという自覚を基本とし、互いに欠けたところをうまく補い合える相手を探し、結合する場所と、タイミングに対する厳粛までのスタンスによって、はじめて維持できることなのだろう。