津軽と石と芸術と、生命

 偶然だけど、津軽に関係する印象的な出来事が立て続けにあった。

 一つは、現在、南青山のラットホールギャラリー→http://www.ratholegallery.com/exhibition.htmlで開催されている小島一郎展だ。

 40歳で夭折したこの写真家は生前、一冊しか写真集を残していないが、彼のオリジナルプリントを、今、見ることができる。

 40年前の写真だけれど、繊細で美しく、まったく古さを感じさせない。雪一面の風景と人間という絵図は、古いも新しいも関係なく、今この瞬間だって成立するものだ。

 私は、アンドリューワイエスの「カーナー牧場」のシリーズの雪景が大好きなのだが、小島さんの写真にも、同じようなものを強く感じた。

 なんて言えばいいのだろう。何ものか大きな力を前にした、人間の慎ましさとか厳粛さが、ひしひしと伝わってくるのだ。

 雪の中に人間がいる。それらを映し出しているけれど、小島さんは、目に見える情景の向こう側を見ているような気がしてくる。だから、そこに写っているものに対して、湿った感情をまったく感じさせない。厳しい自然環境のなかで、かき消されそうになりながら存在する人間というモチーフはカメラフレームの中にあるのだけど、それが切ないとか、苦しいとか、嬉しいといった感情はまったくない。淡々としていながら、緊張感が漲っている。ある種の潔さが、画面を引き締めているのだ。

 「人」という字は、今の字体を見れば、二本の棒が支えあっているように見えるが、白川静さんの説では、そうではない。

 古代、「人」という字は、長い方の棒が、「く」の逆向きに折れ曲がっていた。これは、何ものかの前に、人が手を下に垂れて膝を曲げている様子になる。つまり、慎ましく丁寧にお辞儀をしているのだ。

 小島さんが撮っている雪のなかの人物も、ほとんどがその姿勢だ。吹き付ける雪のなかを歩いているからそういう姿勢になるというのは理屈ではわかるけれど、写真全体の空気として、「人」が何ものかの大きな力の前に、厳粛に身をかがめているように感じられる。それが、この広大な世界のなかで生きる人間の姿勢であることが、見る側の魂に染み入るように伝わってくるのだ。

 この小島さんの写真がとても気になってしかたなかったのだけど、昨日、仕事で銀座に出て中央通りを歩いている時、「石はきれい、石は不思議」というポスターが目に飛び込んで、何だろうと思って見ると、INAXギャラリーで、津軽の「石」の展覧会を行っていた。

http://www.inax.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_001039.html

 津軽は昔から美しい石の産地だそうで、石に魅了され拾い集める達人が、海辺などでコツコツと拾い集めた見事な「石」が、たくさん展示されており、その美しさに、思わず見とれてしまった。

 現代アートなどで装飾的な作品が多くあるが、そういう物を高い金額を出して購入して部屋に飾るくらいなら、これらの「石」を見つけて拾ってきて部屋に置いた方が、よほど素晴らしいと思ってしまった。

 といって、現代美術なんかいらないというのではない。森村泰昌さんの作品を見て脳がかなり刺激されたわけだし、大竹伸朗さんの作品を見てもエネルギーを得られる。

 歳月が経って振り返れば、この時代において、どういうものが本物の芸術であったのかわかることだろうが、今はまだ玉石混淆状態であって、それぞれが好きずきに「我こそはアート」と主張している。それはしかたないことだ。

 でも、はっきりしているのは、「石」など自然物を傍に持ってきた時に、小手先の芸にしか見えず、人為のつまらなさを露骨に感じてしまうような作品は、果たして「芸術」と呼んでいいのだろうかと思う。

 おそらく、本物の芸術は、自然物を傍にもってきても、それに勝るとも劣らない力を秘めているものではないか。そうしたものだけが、人間の可能性や人為に対する信頼、すなわち「人間への希望」をつなぎとめることができる。これは何も現代芸術に限らず、古典的な芸術や、仏像などにおいても同じだろう。

 「人為」に対する何ものかの信頼を呼び起こさない「人為」を、芸術と言ってはいけないような気がする。「芸術」と言う言葉が面はゆいから「アート」と言うのだろうけれど、言葉は違っても本質は同じだ。もしも、「人為」に対する信頼なんてどうでもよく、「感性だ、好き嫌いだ」というなら、「アート」ではなく、「インテリア」と言った方が、混乱が少なくなるような気がする。

 それはさておき、私も、海外に行った時などは、ちょくちょく「石」を拾ってくる。海外の土産物は、だいたいにおいて、「織物」と、ちょっと呪術的な「物」と、拾ってきた「石」だ。

 私は、屋久島など生物の底力みたいなものも大好きだし、樹木が好きだけど、やっぱり「石」にも惹かれるなあと、改めて、石の展覧会で感じることになった。

 先日のエントリーでも書いたように、私は、「生命」を生物学的な現象に限定して捉えていない。

 宇宙には、エントロピーが増大していく無生物的な運動と、負のエントロピーの生物的な運動があって、その両方を統合する力が、生命の力ではないかという気がする。

 私たちの身体においても、蛋白質をはじめ無生物の物質が体内に拡散していくエントロピー増大の働きがあり、そのランダムな増大を新たに秩序化していく負のエントロピーがあることで、私たちは生きているのだから。

 そして私たちは、自らを生物であると自覚しているから、生物の美しさや凄さに関しては、自らが意識化できる価値基軸において、認識することができるし、言語化もできる。

 「活き活きとしている」とか、「強靱だ、逞しい」とか、「慈愛を感じる」とか、「可憐だ」等々。そして、なぜそう感じるのかも、だいたいの部分において、自らの生物的判断や生物的経験と照らし合わせて理解することもできる

 しかし、無生物の「石」などは、「綺麗だ」と感じるけれど、その感覚が自分のなかのどの部分から発せられているのか、わかりにくい。

 デザインの妙味とか、模様の美しさとか、自分の中に既にできあがっている美の様式みたいなものに照らし合わせて、それこそ、現代美術を理性で鑑賞するように、または家の壁紙みたいなものを選ぶように好き嫌いで見ることもあるだろうが、「石」そのものと向き合って感じる「綺麗なあ」という感覚は、どうやらそういう感覚を超えている。

 それは、もっと違うところから伝わってくるものなのだ。宇宙の核心にあるような何か。それが何なのか、今はうまく記述できない。

 しかし、石を見ながら自分の中に生じる、ある種の厳粛な感覚は、なぜだか、小島一郎さんの雪原と人間の写真に通じるところがある。

 津軽という土地に、生物的な熱さを超えた、生命の本質が隠れているのかもしれない。