出会いと表現

 

 昨日は、介護施設のデイサービスの取材の後、時間があったので恵比寿の写真美術館に行く。写真美術館の友の会(年2千円)だと、地下一階と三階の企画展が無料になる。二階で行われている有料の中堅写真家特集、鈴木理策さんの雪とか森の写真は、何とも感じなかった。

 見る目がないのかもしれないけれど、私はどうしてもあの種の癒し系?の雰囲気写真とは相性が悪い。撮影者と対象との関係や表現において、「これでなくてはならないんだ」という強い説得力や納得感、もしくは、「こういうこともあるのか」という驚きがあまり伝わってこないのだ。

 癒しならば、本物の樹とか石とかを見ていた方がいいので、わざわざお金を払って表現物を見たいとは私は思わない。作品を見るというのは、私の場合、その作品を通して、それまでの自分を超えた出会いのようなものを求めている。自分の目が新しく開かれていくことを期待するのであって、そのスタンスで、「風の旅人」も制作している。

 東京都写真美術館では、地下一階のキュレーターチョイスの企画展がとてもよかった。

 これは、数名のキュレーターが、自分個人のこだわりで選んだ作品のシリーズを集めて展示したものだ。

 サルガド、石元泰博さん、森山大道さんなどの写真をまとまった数で見比べることができるし、マンレイと森村泰昌さんのコラボレーションも絶妙で面白かった。宮崎学さんの動物の死後の定点観測も、“宇宙”を感じた。

 一人のキュレーターがやると、頭でいろいろ理屈っぽく考えてつまらなくなるけれど、数名のキュレターが自分のお気に入りを持ち寄ると、なかなか面白い。キュレーターに限らず、こだわりのある人が、一点ずつの写真ではなく、お気に入りの写真家の写真を数枚ずつ組み写真で見せると、面白いものになると思う。

 なぜなら、そこには、その人と作品との出会いがあるからであり、その様々な出会いが集合体になると、人間の出会い方の多様性が見えてきて面白いのだ。

 これが一点ずつの写真だけだと、出会い方ではなく、好き嫌いのようなものが強く出てきてしまう。好き嫌いが多様にあっても、特に新鮮さを感じない。この世界の面白さは、好き嫌いの多様さではなく、出会い方の多様さではないかと私は思うのだ。

 特に表現におけるユニークさというのは、出会い方のユニークさだと私は思う。「出会い」のユニークさではなく、「出会い方」のユニークさだ。

 よく、「いろいろな出会いがあって楽しかったです」という感じで、旅の写真を見せられたりすることがあるが、そこに写っているものを見ても、いろいろな出会いがあるようにまったく感じられないことが多い。違う人や違う風景が撮られていても、全ての写真が同じような感じなのだ。写っているものが同じだけならいいのだが、他の誰かに見せられたものとも、あまり違いはない。これはいったいどういうことなんだろう。

 写っているものは同じでも、本人にとっては、それぞれがユニークであること。これは本人の実感としては真実なんだろうとは思う。だから、それはそれで構わない。でも、表現物にその出会いのユニークさが出ていないとすれば、その表現物は、その人にとっては大事なものかもしれないけれど、他人にとっては、あってもなくても構わないものだ。他に取り替え不可能な作品との出会いにはならない。そのあたりのことがわからない人が多く、そう指摘すると、すごく不満そうな顔をする。自分にとってかけがえのない出会いそのものを否定された気持ちになってしまうのだろう。

 表現する人の中に宿る出会いがその人にとって神聖なものであるからといって、他の人に対して、それを強要できやしない。その時、その場所にいたのは、自分だけなのだ。その出会いが他の者にとっても神聖なものになるためには、作品じたいが、他の者にとっても神聖なものになっていなければならないだろう。すなわち、その作品との出会いじたいが、取り替えのきかない体験にならなければならない。

 今回の展覧会で、サルガドとか石元泰博さんとか森山大道さんや森村泰昌さんの作品を改めて見比べていると、それらの作品じたいの唯一性をすごく感じる。一目で誰のものかわかる。そして一度見たら記憶に深く残る。

 といって、表面的に奇をてらえば唯一のものになるというわけではない。頭で考えられるような表現は、既に他の誰かが頭で考えているものだ。

 人は誰でも固有の経験を生きている。人や物との出会い方などにおいて、まったく同じだという人は、この世界にいない。だから記憶の織り込まれ方は、人それぞれ微妙に異なる筈だ。そうした個人的で固有の経験とは別に、学校やメディアをはじめ、みんなで共有しなければならない常識や知識情報などの経験が、一人の人間のなかに存在している。その二つの経験が合わさって自分の人生が築かれていくのだろうけれど、後者の方が優先されすぎると、自分に固有の出会いというものが希薄化して、人生を自分で生きている気がしなくなる。

 また、そういう表現ばかり見せられると、人間として他の可能性が開かれないような気がしてくる。

 人間として他の可能性というのは、出会い方の可能性なのだと思う。

 個性というのは、表面的な自己主張ではなく、その人と他者との出会い方において現れるものなのだと思う。

 出会うためには、自分の中に準備ができていなければならない。その準備は、その人の固有の経験から熟成されていくものだ。その準備があるからこそ、相手の表面ではなく、その深いところに準備されているものと出会える。

 準備されたものと準備されたものが出会った時、本物の表現者は、その自分ならではの出会いの感覚を、自分ならではの方法で作品化せざるを得ない。こうでもない、ああでもない、と苦しい試行錯誤を重ねるしかない。そうすると、そこから生まれる作品は、それを見るものにも何かしらの準備ができていると、深いところでの出会いにつながる。

 文章にしても写真にしても絵にしても、技術的に上手い人はいくらでもいて、もはや技術だけでは、人間のあり方における可能性の幅を広げるような感覚を与えられるものは少ない。といって、単なる自己主張の表面的な見せ方を変えるものによって、人間の存在の可能性の幅を感じさせられることはないだろう。

 私が注目しているのは、出会いとか関係におけるユニークさだ。頭で考えて作り出された嘘っぽい出会いや関係ではなく、本気でそう在らざるを得なかったのだろうと納得させられてしまうもの。そのようなものを見る時、人間として存在の可能性の幅を感じる。とりわけ現代のように標準と均一の価値観のなかに全ての人の人生を押し込めようとする圧力の強い時代には、標準や均一におさまらない人や物との関係の素晴らしい在り方を感じさせてくれる表現が、救いになるのではないかと思う。そして、そういうものこそが、この時代における美なのではないだろうか。

 この世に、自分と同じものは他に一つとしてなく、かけがえのないものであるということを証明してくれるものは、自己問答による解答ではなく、他者との出会いなのだから。