ミャンマーおよび報道について

 つい最近、マグナムの写真家たちに関する記録映画を見る機会があった。

 マグナムは、世界最高の写真家集団と認識されているが、過去のキャパやブレッソンが活躍していた頃と比べて、その影響力や役割が失われつつある現状のなかで、一生懸命に「マグナム」の素晴らしさを説き、今の沈滞状態を脱するための何をすべきかということを、写真ではなく、言葉で語り続ける映画だった。

 写真表現を何とかしなければならないのだが、けっきょく、発想が言語中心主義なのだ。

 キャパやブレッソンが活躍した時代は、大きなドラマがあった(とされる)。大きなドラマとは大きな戦争とか革命だ。進行しつつあるドラマの現場にいて、その瞬間を撮るだけで、その写真はドラマになり、ドラマが大きければ大きいほど、写真のドラマ性や自分の存在感も高まった。しかし、今はかつてのように大きなドラマがない。ドラマを求めて現場に入るが、キャパたちの時代に比べてドラマ性は小さい。それゆえ、自分たちはキャパやブレッソンのような英雄になれない。それでも自分の存在感を確認するために現場に入り続ける。

 そういうことを繰り返し、厳しい審査でメンバーになる人材を絞り、世界最高の写真家集団をいうプライドを維持しようとしても、マグナムおよびメンバーの存在意義は高まることがない。そこにマグナムおよびメンバーの苦悩がある。だから、視点を変えようということになる。ドラマは、紛争地だけでなく、日常の周りにあるのだということになって、マーティン・パーのように、奇抜なファッションや、靴、アクセサリーなどをキッチュに撮り、現代の日常のなかの当たり前の素材を人々の注意を引く存在感に仕立て上げる人を現代のヒーローにする。マグナムも変わらないければならないということで。

 紛争地か、それとも文明社会の日常か。紛争に変わるドラマは最近では環境問題だ。そうした議論が繰り返される。

 しかし、どれにしても、人間が作りだしたドラマを追って自らの存在意義を高めることを目指すということで、立脚点は同じだ。

 戦争や革命など、誰が見ても時代が動いていると実感できるようなことが、大きなドラマであり、そうしたものがなくなれば、日常のまわりの「普通」ではないものにドラマを求める。

 肝心なことが一つある。そうしたドラマは全て人間がつくりだしたものだから、言語化しやすいということだ。人間の力を超えたものを相手にするのではないから、言葉でまとめることが可能だという前提が最初からある。

 極端な話、それらのドラマは、映像などなくても言葉だけで伝えようと思えば伝えられることだ。

 「軍隊がデモをする僧侶に発砲、日本人ジャーナリストが射たれて死亡」というキャッチコピーだけで何が起こったかはイメージできてしまうし、あとは、その原因究明とか、政府批判、反対行動などという形の人間ドラマにつながって展開していき、その人間ドラマが、ドラマなき時代のドラマとして束の間、伝えられる。そうしたドラマを伝える映像は、言葉を強化するものにすぎない。

 人間がつくるよりも遥か以前からあったものが、この世界には無数に存在し、そこに無数のドラマがあるけれど、それらのドラマは、多くの人間にとって、ドラマではない。例えば、未発見の星雲が発見されるなど、そこに人間が介在する時、その「発見」という出来事がドラマになる。

 その「発見」のされ方を、人間はよく理解できる。しかし、その星雲の「作られ方」は、よくは理解できない。人間がよく理解できるものが、人間にとってドラマであり、そうでないものは、ドラマになりきれない。

 そのようにして、ドラマを求める人間によって、人間のまわりには、人間が理解しやすいものが堆積する。人間のドラマではなく自然のドラマだと主張して自然を撮影したとしても、自分が理解できる範疇に自然を貶めて撮っているものが多い。人間が存在するより遥か以前からそれは存在し、その作られ方などにおいてとても人間の及ぶところではないと、自分の存在を激しく揺さぶられて突き動かされる自然写真は少ない。

 人間の手が簡単には届かないものがある。そういうものは、人間が作り出した言葉によって簡単に引き寄せることもできない。

 そこに向けて、懸命に手を伸ばすように行う表現がある。言葉は、人間以前のものを説明できないが、だからといって人間以後のものを説明するためにだけ使用するのではなく、人間以前のものの在処を指すことや、そのドラマじたいを“描写”することはできる。

 写真もまた、それが可能だ。そうした表現が、現在進行しつつある人間ドラマに対して何の効果があるのかと人間中心主義の報道家表現者は主張するかもしれない。悠長なこと言ってられないのだと。

 人間にとってわかりやすいドラマに対して、人間にとってわかりやすい表現で立ち向かうと、多くの人を巻き込んで解決につながるかのような錯覚があるが、実際はそうではない。そうしたアクションは、ドラマ性を急激に薄め、その結果、人間の関心外になるということが、繰り返されているではないか。

 といって、一見わかりにくいキッチュな表現をとっても、けっきょく人間の中のドラマであって、言語に置き換えやすいものであるかぎり、そのドラマ性はあっという間に希薄してしまう。

 それが現代のマグナムのジレンマだと思うが、そのジレンマは、自分の存在意義の希薄化に対するものであり、報道であれ、キッチュアートであれ、表現者が怒りをもって戦っている相手は、けっきょく、社会や国家ではなく、自分の存在意義の希薄化だということもあるかもしれないと思ったりする。

 人間世界のなかで自らの存在意義が低くなると、自分の人生のドラマ性もなくなると感じ、その空しさに耐えきれなくなる。それが、人間世界のなかにしかドラマを見いだせない思考の癖だと思う。

 でも本当のドラマは人間以前のところにあるのだろうと思う。人間が作ったのではなく、何ものかの働きによって、人間が作られ、そのようにして作られた人間が、何ものかの働きによって人間の現実を作らされている。その働きを言葉で説明することなどできやしない。「神」などという言葉で一括りにして納得してしまうこともまた、「神」という概念を人間がつくりだしたものであるかぎり、人間中心の発想なのだ。

 その「働き」は、言葉で説明できないけれど、時間をかけて付き合うことはできる。性急な答えを求めず、時間をかけて付き合うことだけが、人間中心主義から脱する方法だと思う。そして、そのように付き合ってはじめて、その「働き」は、おぼろげに見えてくる。おぼろげに見えて、おぼろげにわかるということが大事なのだろうと思う。この世のどんな現象であれ、人間が簡単に言語化できない「働き」が、時間をかけて次第に整えていったものだ。その経過を見ることなくして、そこにあるものはわからない。その経過のなかには、そのものならではの因縁が様々に織り込まれている。その因縁を丁寧に描写することで、その「働き」を感じること。それが、その存在に対する敬意だと思う。

 今日の報道に一番欠けているものは、その敬意だ。そのものの中に流れる長い時間のほとんどを何も知らないで、自分のなかにある「言語的解釈と説明と納得」のなかに、そのものを整理して、その整理を目立つように示すことで、自らの存在意義を高めようとする。

 「ミャンマーの平和を願う!」と簡単に叫ぶ時、その「平和」は自分の解釈のなかの平和であって、ミャンマーの人々が、その風土や信仰のなかで積み重ねてきた平和感覚と違うものかもしれない。同じだと決めつけることじたいが、とても傲慢なことだと思う。