いのちを見つめて

 先週末から関西へ行く。大阪芸大で開催された日本写真芸術学会主催のシンポジウムにおいて、写真家の野町和嘉さん→http://www.nomachi.com/と小林正典さん→http://www.kmopa.com/kobayashi/kobayashi.htmと、三人で鼎談を行った。

 野町さんは、イスラムチベット、インドなどにおいて、大自然のなかに生きる人間の、その強靱なまでの営みと宗教との関係を圧倒的な迫力でとらえる写真家であり、小林さんは、アフリカ、コソボなどの難民キャンプや、カルカッタの「死を待つ人の家」でのマザーテレサの写真などがよく知られている。お二人とも、テーマが一貫していることと、国際的に高い評価を得ている写真家であることで共通している。

 このお二人を相手にする鼎談は、「いのちを見つめて」というタイトルであり、私が、お二人をリードして話す役目を与えられた。

 事前の打ち合わせで、主催者側は、最近、表層的なブームで浮沈の激しい写真トレンドと一線を画し、本物の写真の在り方を、このたびのシンポジウムで掘り下げていきたい旨のことを伝えてきた。

 「いのちを見つめて」も、「本物の写真とは?」というのも、荷が重いテーマだ。

「いのち」は、古今東西、永遠のテーマなのだから、それに応える表現もまた、当然ながら「本物」でなければならないだろう。

 「本物」の定義は人それぞれかもしれないけれど、少なくとも、「時間」の経過に耐えうるものでなければならないと思う。そして、その表現が特定の「地域」から発していても、地域の狭い枠組みを超える空間的広がりを持つものでなければならないとも思う。

 レオナルド・ダ・ヴィンチであれ、レンブラントであれ、セザンヌであれ、本物の表現は、時間によって風化することなく、そこに描かれているものがローカルな出来事であっても、時と場所を超えて多くの人の心を打つ。

 そうした本物の表現は、表現者が死んでからでないと判断つかないところもあるが、戦後のこの数十年は、かつてないほどの速度で変遷しており、”新しい”と言われるものもあっという間に古くなってしまう状況であり、この時代の数十年に耐えうるものは、”永遠”に通じる何かを備えているとも言える。

 野町さんや小林さんが撮った写真は、数十年前の作品でも、古さをまったく感じさせない。また、彼らと似たようなシチュエーションで撮影された写真は、彼ら以降、無数にあるかもしれないけれど、その多くが他に取り替え可能な印象しか与えないのに対し、野町和嘉ならでは、小林正典ならでは、という強い固有性とともに迫ってくる。

 いったいなぜそうした違いが生じるのかという点を考えていけば、本物とそうでないものの違いが生じる原因も明らかになっていくかもしれない。そういう視点で、鼎談を進めることにした。

 話しを進めていくうえで、はっきりとわかったことは、お二人の姿勢だ。

 小林さんは、かつてカルカッタの「死を待つ人の家」に行った時、撮影できず、カメラを置かざるを得なかった。そして、約1ヶ月間、シスター達と同じように、そこで働いた。

 マスコミの取材にうんざりしていたマザーテレサは、小林さんが、最初、取材のお願いに行った時、笑顔一つ見せなかった。そして、忙殺されて、小林さんの前に姿を現さなかった。しかし、小林さんが発つ前の最終日、奇跡的に姿を現し、それまでの小林さんの「」死を待つ人の家」での働きをシスターから聞き、満面の笑顔で小林さんを迎え入れた。そして、その最終日に、小林さんの素晴らしい写真が生まれた。

 「外から撮影するのではなく、内に入り、その温もりなどをしっかりと感じなさい。」それがマザーテレサのメッセージだったのだろう。小林さんは、その後、世界のどんな危険な地域に赴く時でも、防弾チョッキを着ることなく、そこにいる人と同じ目線で撮影することを徹底している。外からではなく、その内とつながること。相手への配慮を何よりも大切にし、そのためにシャッターを押せなくてもやむを得ない。そうしたスタンスを徹底することによって、数少ないかもしれないが、かけがえのないシャッターチャンスが生まれる。相手に対する配慮もなくシャッターを切り続ければ、偶然でも良い写真が写るというのは甘い考えで、そういうスタンスでは見えてこないものがある。見えてこないものは写し取れない。 

 野町和嘉さんの原体験は砂漠だ。砂漠といえば、光と陰、寒暖の差など強いコントラストの世界という印象が強く、実際にそれを表現した写真も多い。もしくは、月と砂漠などロマンチックなイメージに当てはめたものも多い。

 野町さんが砂漠で得たものは、微妙な光との付き合い方だそうだ。時間とともに、光が刻々と変化していく。光と陰という単純な区分ではなく、光の階調が少しでも異なれば、風景も劇的に異なっていく。太陽が出ている時だけではない。日の出前や日没後の方が、むしろ微妙で繊細な光のドラマが進行していく。その時以来、野町さんは、何かを撮影すると決めると、どういう光で捉えるかということを、常に考え、イメージし続けてきたという。光の捉え方によって、対象が内に秘める美しさを最大限に引き出すことができる。同じものでも、光の作用によってまったく異なる。光は、表面ではなく内面を照らし、いのちを吹き込む。

 改めて野町さんの写真を見れば気付くが、野町さんの写真はとても明晰なのに、実際は暗い所での撮影が多い。強い光のなかではなく、微妙な光のなかで撮られていながら、露出などが最善のためだろう、光の強さ弱さ、明るさ暗さなどまったく意識されず、対象の美しさだけが見るものの胸に迫るのだ。

 そうした感覚を身につけるためには、頭でいくら考えてもしかたない。だから野町さんは現場主義だ。現場主義というのは、現場に行けばいいというだけのことではない。現場において、先入観を殺ぎ落とし、自分の五官を全て解放して、現場に溶け込むようにして対象に向き合う。写真表現でそんなことは当たり前のことだと思う人もいるだろうが、実際に、そのように身体感覚を準備して、撮影されたものは少ない。

 今日、巷に溢れる多くの写真表現は、身体感覚を総動員しているのではなく、「見た目の面白さ」を客観的に切り取ったものか、撮影者の気分にそった「心象風景」だ。

現場に溶け込んでいるのではなく、外から表面だけ接しているか、自分の内側を第一に覗き込んでいるかであり、対象は、自分の表現のために利用されているにすぎないことが多い。

 相手の内実を見ようとしない。相手の内実を最善に引き出そうとしない。相手の内実と深く関わろうとしていない。それはすなわち、相手への配慮も敬意も足りていないということになる。そういう人が写真を売り込んでくる時は、電話口で自分のことばかり説明する。「風の旅人」をしっかりと見ていない。

 自分のことを一方的に主張することが表現ではないと私は思う。あくまでも相手があり、それと自分をどう結ぶかだろう。すなわち関係性こそが、表現の場合でも、”いのち”だと思う。だから私は、相手との関係性を無視した自己都合的な売り込みは、写真もまたその程度だろうと予感して、会わないようにしている。

 ”いのち”は単独では存在しない。様々な関係性が整えられて、働き合って、その全体が”いのち”を帯びる。生物学的には、相補性ということだと思う。

 蛋白質だけなら物質にすぎないけれど、ジクソーパズルのように、蛋白質それぞれの固有の凹凸が絶妙に組み合わさることで、生物としての働きが生じる。

 自分の側のパズルのピースのことだけを考えるのではなく、自分を取り巻くピースの凹凸に思いを巡らせ、最善の組合せを求めた慎重な態度をとらなければ、表現もまた、”いのち”を帯びたものにならないだろう。

 このたびの鼎談の一応の結論として、写真表現において、”いのちを見つめる”というのは、そういうことではないかということになった。そして、”いのち”を見つめ、”いのち”を帯びた表現だけが、その時代の”聖画”になりうると私は思う。

 ちっぽけな自己表現ではなく、現代の”聖画”となりうるものを作りあげた時、その”聖画”は、時間と空間を超えた本物となるのだろうと思う。

 そういう意味で、このたびの「いのちを見つめて」というテーマから、本物の写真表現を探っていく鼎談において、野町さんと小林さんが選ばれていたのは最適だったと思うし、私も、本物の表現者を前に小手先のことをやってもしかたなく、自分の気持ちや考えを偽ってその場を取り繕う必要もなく、本音で関わることができた。