ボクシングと、宗教団体のこと。

 昨日、編集部のビルのベランダの向かいにあるオフィスのテレビの前に人が集まっていた。なんだろうと思って目を凝らすと、亀田選手の父親の顔が大きく写っていたので、どやら謝罪会見のようだ。そして今朝、新聞の第一面と社会面とスポーツ面に写真付きで昨日の会見に関する記事が出ていた。さらに、別のページに、今回の騒動についての分析がなされていた。

 反則がどうのこうのと大きな騒ぎだけど、あの程度の反則は、サッカーとかラグビーとか他のスポーツでも普通に行われているのではないか。サッカーで、ボールを蹴るふりをして相手の足などを蹴っ飛ばしたり、肘で顔面を強打するようなシーンは、けっこうあるのではないか。、また、かりに反則現場が見つかっても、イエローカードとかレッドカードで次の試合に出られなかったり、罰金が課せられる程度だろう。一年間、きちんと練習も試合もできないといった処分や、その監督までがライセンス停止などの処分になることが、サッカーなどであるのだろうか。

 「最終ラウンドで相手を投げ飛ばして、それが相手の選手生命にかかわる危険性もあった、だから深く反省すべし」などと新聞で書かれたりしているが、本気でそう思っているのだろうか。

 あまりにも大袈裟すぎる。ニュースでそのシーンを見たけれど、あれは”反則”とか”ルール違反”といえるものなのだろうか。反則とかルール違反というのは、フェアでないということであり、自分の戦いを有利にするための違反をすることだ。あのような投げは、パフォーマンスか、怒りにまかせた無謀な行為という程度のことにすぎない。

 あのように誰が見ても「おかしい」行為を、みんなで寄ってたかって責め立てること。

 最近、宗教団体の紀元会であったリンチ殺人事件にしても、みんなで寄ってたかって、一人の言動を、「あなたは間違っている」「あなたはおかしい」と責め立て、挙げ句の果てに、亀田家の件と同じように親が悪いということになって親を呼びだし、集団ヒステリーの状態で殴る蹴るの暴行を加えている。

 ちょうど同じ時期にあったこの二つのニュースは、とても類似している。

 今の社会は、潔癖性すぎるくらいに、「おかしいこと」が許せないのだろうか。みんなそんなに、”まとも”なのだろうか。

 自分ひとりで声をあげて、「間違っている」と言うのならいいのだが、自分一人では何も言えないくせに、みんなで責め立てる対象を見つけると、一斉にそれに加わる。

 ホリエモンの時もそうだった。

 「間違っている」ことに誰も気付いていない時、「間違っている」と言って、それに周りが気付けば、それでそのことは終わりでいいだろう。

 現在の状況(とりわけメディア)はそうではなく、誰もがそれに気付いた状態の時から、それに乗じた運動が始まる。

 以前、あるプロジェクトの立ち上げに私が関わった時、それが始まる前は、みんな遠巻きに、「そんなの無理なんじゃない」などとわけ知った顔で言うばかりで、ほとんど手を出さず、ごく少人数で苦労して始めた。でもそれが動き出して、意外とうまくいくかもしれないという状態になったら、それまで遠巻きだった人たちが協力したいと言って集まってきたので、うんざりして、私は降りた。

 動く前の重いトロッコを押そうともしないけれど、トロッコが動き出すと、それに乗ってきて、自分もその仕事に関わっている顔をしたがる人は多い。で、そういう人は、トロッコが止まると、降りるだけで押してくれないのだ。重いトロッコを押すことが、モノゴトに本気で関わることなのだけど、そういう行動はとらない。

 止まっているトロッコを押すのは、とてもしんどい。気分爽快とはいかない。だから、遠巻きに眺めて、動き出すのを待つ。

 それよりも動いているトロッコに乗っている方が、楽チンなうえに、その動きに自分も関わっているように感じられて、気分がいいのだろう。

 いったい何なんだと思ってしまう。 

 この時代は、右を見ても左を見ても、”便乗”が溢れている。

 みんなで歩けば恐くない、が溢れている。

 自分一人ではやらないけれど、みんなが後ろ盾になると、とたんに、人を責め立てる現象も溢れている。宗教だけの問題ではない。社会のなかでそういう心理の人が多いから、そういう宗教が現象として現れるだけのことだろう。

でもこんなこと書くと、「あなたは間違っている」「あなたはおかしい」と大勢に責め立てられるかもしれない。