就職のミスマッチ!?

 一昨日の新聞で、「就職のミスマッチを減らせ!!」と、大学が独自に卒業生の早期退職を防止するため行っている工夫のことが紹介されていた。

 記事によると、入社3年以内に退職する大学新卒者は35.7%(2003年卒)で、一年以内に退職する人も、ずっと15%を超えているそうだ。

 そうした現状を知っておそれをなして、大学を卒業しても就職しない人も大勢いるだろうし、とりあえずの猶予期間として大学院に進む人もいるだろうから、かなりの学生が、就職という現実とミスマッチを起こしていることになる。

 大学側は、その原因として、学生が企業のことをよく知らなかったり自分の適性をよく知らないまま就職を決めているからだと分析して、「自分を知るための講座」などを行ったり、「再就職支援の会社」を設立したりしている。少子化時代に大学が生き残るために「面倒見の良さ」が重要になっているからだそうだが、そうした案を作りだしている人たちは、はたして企業に就職したことがあるのだろうか。

 大手の商社、金融、電機メーカなど周囲からもうらやましがられるような内定をもらい、最終的に大手電機メーカーに就職を決めた”優秀”な新卒者は、「考えていたような仕事ができない」という理由で、入社したばかりの会社を半年も経たないうちに退職したそうだ。入社後、営業に配属されたが、思うように営業成績が伸びず、「こんなはずではない」と思い悩んだうえのことらしい。

 営業成績以外の側面でも、「考えていたような仕事ができない」と思い悩む新卒者は多いのだろう。だから、「ミスマッチを減らせ!!」という対策が講じられる。

 でも、「考えていたような仕事をする」というのは、その人に合ったジャンルを見つけるという表面的なことだけに視点を置いていていいのだろうか。

 考えていたような仕事とは、いったいどういうことなのか、ということから考え始める必要があるのではないだろうか。

 私が思うに、「考えていたような仕事」とは、何かしらのジャンルを指しているのではなく、「活き活きと働けて、自分を生かせて、充実感があって、やり甲斐があって、達成感があって、収入面でも恵まれて、休みもあって・・・」という漠然としたことなのではないだろうか。

 小学校の頃から、周りに”優秀”だと見られていて、進学塾などにも通い、夏休みは集中講座など受け、自分でも相当な努力をしてレベルの高い大学に入学できた。そのように子供の頃から一生懸命努力してきたのは、”大きな見返り”が得られると信じていたからだろう。親や教師もまた、そうした努力が幸福へのパスポートであるかのように洗脳してきただろう。

 でも、実際に企業に就職してみると、それまでの努力の見返りとしては、あまりにも小さなものしか得られない。想像していたほど、「自分を生かせて、充実感があって・・・」ということにならない。

 一方で、成功者がメディアなので華々しく取り上げられたりする。自分もその側にいなくてはいけないのに、現実はそうではない。今この瞬間だけではなく、将来も、そうした華々しさや充実感が得られることはないのではないか、つまらない人生を何十年も黙々と歩くだけではないかと観念で決めてしまい、愕然としてしまうのではないか。

 優秀な大学を出て高級官僚になって、天下りをはじめ、最後の最後まで自分のポジションの権益をむさぼろうとするのは、自分なりにそれまで相当な努力をしてきたのだという自負があり、その努力に比べて人生の歓びの見返りが少なすぎると驕った気持ちになっていることが原因だと思うのだけど、そうした心情にどこか近いものが、早期退職者にもあるのではないか。一方はポジションに執着し、一方は離脱するのだからまったく逆のようにも見えるが、「現状の自分を高く見積もる」ということにおいては、同じような気がする。現状の自分を高く見積もるから、営業成績が伸びない時、そのなかで対策を講じるのではなく、自分に合っていないからと安易に考えてしまう。

 現代の社会で、「努力すれば報われる」という言葉は、ほとんど死語になっている。自分なりに努力したにもかかわらず、その努力が速やかに結果につながらないと、努力よりも抜け目無くやることの方が社会で生きるうえで重要だと思うようになるのかもしれない。

 でもそうした傾向が強まれば強まるほど、他人から見た時にうらやむようなポジションを得たところで、自分の内心では、「考えていたような仕事」ができていない、つまり、「自分を生かし、充実感も達成感もある仕事」ができていないという思いは膨らみ続けるだろう。

 今日の風潮では、「努力」と「報い」の関係について、誤解しているところがある。

 「努力」が「報い」につながる保証はないが、「努力」のない「報い」はない。

 名選手がピッチのうえで自由に活き活きと動けるように、社会や会社を舞台に活躍しようと思えば、名選手と同じような努力は当然ながら必要だろう。ボールを自由自在に扱い、全体の動きを一瞬にして見切れるような状態に到達するために、運とか抜け目無さだけでいいはずがない。

 ただし、その「努力」と「報い」の関係を、正比例のように捉えている人が多い。

 右軸に「努力」の計数を増やせば、縦軸に「報い」の計数も増えるはずだと考えてしまっていると、「努力」計数を伸ばしているのに、縦軸の上方向に「報い」が伸びていかないことに焦りを感じてしまう。

 とりわけ現在の塾をはじめとする青少年の教育では、「努力」の結果がすぐに「報い」につながるようにすることが、子供のやる気を増大させ、良いことだと思われてしまっている。ドリル計算をこれだけやれば試験の点数があがるとか、「努力」したら、「報い」として、誉めてあげるとか。

 「誉めることが、子供のやる気を増す」といった処世訓が、子供の教育現場だけでなく、大人の企業世界でも必要になっているらしい。

 こうした考えは、多くの人の賛同を得られやすい。多くの人は、「努力」と「報い」が正比例関係だと、未来展望もしやすいから、頑張ろうという気持ちにもなりやすいし。

 しかし、「現実」は、そうなっていない。社会に出なくても、それはわかる。

 たとえばスポーツの練習にしても、週に1日の練習を3日に変えれば成果はすぐに3倍になるわけではない。テニスなどで毎日ボールを打っているのに、コートにボールが入ってくれないということが、何日も続く。その段階で、面白くなくて自分には向いていないと思ってやめてしまう人もいるだろう。

 でも、そこで諦めずにずっと続けていると、ある日突然、何かのきっかけで、自分の打ったボールがコートに突き刺さるという至福の体験をする。

 その感覚は、理屈ではなかなか説明できない。だから人に簡単に伝えられない。でも、自分では、”その感じ”がわかるのだ。”その感じ”を掴むと、自分が打つボールがコートに突き刺さることが当たり前になる。”その感じ”というのは、正比例の直線上にはない一種の”跳躍”なのだ。そこにいかなければ、”その感じ”は、わからない。

 語学だって、100の単語を覚えている人より200個の単語を覚えている人が2倍上手にできるわけではない。ある臨界点に達するまでは、単語数の多い少ないは、実際上の力にまったく反映されない。

 「努力」と「報い」を直線で結ぶような教育は、現実社会ではむしろマイナスではないかと私は思う。誉められたり報いがすぐに得られれば、誰しも嬉しくなって、やる気がでるかもしれないけれど、それが当たり前になってしまうと、誰も誉めてくれなかったり、すぐに報いが得られなかったら、やる気が失せてしまうという体質になってしまう。

 そうなってしまうと、実際に社会に出て現実に直面し、誰も誉めてくれず、報いもすぐに得られないと、「自分の考えていたような仕事ができない」というようになってしまうのではないだろうか。

 それよりも、子供の頃、どんなことでもいいから一つのことに取り組み続けて臨界点まで達し、努力と報いが正比例ではないということや、誰かに誉められるとか誉められないとかに関係なく自分としてやり続けたいと感じるような喜びを知ることの方が、よほど重要だという気がする。

 モノゴトには臨界点があり、臨界点に達してはじめて、それまで想像だにできなかった”跳躍”が起こる。

 スポーツにおいて、ある日、突然、身体の動きががらりと変わったり、語学において、突然、上手く話せたり聞こえたりするように、仕事だって、その種の臨界点がある。臨界点に達してはじめて、仕事が面白くなる。

 私はまだ達していないけれど、「人生の歓び」というものにも、その種の臨界点があるのではないかと思う。