人はなにを学ぶのか

 やりたいようにやれる立場にいても、やりたいようにやる、というのが、なかなか難しい。何をどのようにやりたいのか、自分でもよくわからない。

 自分のやりたいことは、とても漠然としている。何が欲しいとか、誰に認められたいとか、そういう類のことではない。ならば自分で納得できればそれでいいのかというと、その納得というものがよくわからない。一つの状態をクリアして、その瞬間はそれなりに納得しても、すぐに空白がきてしまう。

 その空白の向こうにあるものがいったい何なのか、頭で考えて言葉で導き出すことはできず、ただ目を凝らすことしかできない。身体を動かし、ぶらぶらと歩きながら、偶然の出会いを期待するような気持ちもある。そのような状態で、うまい具合に自分の目の前にこれはと思うものが降りてくるものがあり、それをどうにかつなげることで、自分が潜在的に思うことをとりあえず形にしてきているけれど、いつもいつも、そのように都合良く降りてきてくれるとは限らない。

 「降りてくる」のではなく、もしかしたら自分の無意識が手繰り寄せているのかもしれない。

 無意識が何かを切実に求めていれば、そのように求めているものと出会う。偶然出会うのではなく、目の前を流れゆく膨大な情報の渦のなかに、無意識と呼応するものが浮かびあがるのだろう。無意識が切実に何を求めているのか、自分の意識はよくわかっていない。何かを手繰り寄せながら形になったものを見て、自分はそういうものを求めていたのだと後から気付く。

 今、自分の無意識は何を切実に求めているのか。

 要するに、「人間とは何か」、「人間と人間以外の世界との関係は何か」を追求していくということ。

 これは、日高敏隆さんが新著「生きものの流儀」(岩波書店)の後書きで、私が制作している「風の旅人」という雑誌を評して書いてくださった言葉なのだが、このシンプルな言葉を改めて目にして、「ああ、そういうことなのかなあ」と思うところがあった。

 観念だけで追求していくのではなく、具体的な行動と形を通してこのテーマを追求していくということ。

 これは何も「風の旅人」の制作のことだけではなく、ずっと若い頃から心に抱いていたテーマだった。私だけでなく、ほとんどの人間が、このテーマを無意識の深いところに抱いているのではないかと思う。

 日頃、このテーマを気にしないようにつとめていても、突然、自分の前に降りてきてしまうことがある。人生の途上で、大切にしてきたものを失ったり、行き場のない所で立ち往生した時などに。そのような時にふと顔を見せるのだから、自分のなかから完全に消えて無くなっているわけではない。

 この世の現実に揉まれながら生きるために、そういうことをいちいち考えない方がよいと判断する人は多い。目の前の現実に対して他に考えなければならないことはたくさんあるから。考えなくてはならないことのなかには、日々の生活のこともあるし、現在および近未来の自分の保身のこともあるだろう。誰しも自分が手にしたものは失いたくないし、まだ手にできていないものを得たいとも思う。お金、地位、名声、それらを総合した力も欲しい。それだけが人生の全てではないことはわかっているけれど、それらがあった方が、有利であるという打算もある。そして、そういう具体的な目的意識があった方が、日々、それに邁進しやすいということもある。よけいなことを考えることなく。

 

 「人間とは何か」、「人間と人間以外の世界との関係は何か」ということを追求していったところで、この現実社会のなかで生活はできない。多くの人は、きっとそう思っている。「その答が、目の前にある仕事とどう関係があるのか?」と直線的に考える癖があるからだ。直線的な思考が強くなればなるほど、「実用」に傾く。

 でも、人間とは何か、人間と人間以外の世界との関係は何か、ということを頭だけでなく実際の行動も含めて追求して確認していくことを行っていなければ、この現実社会においても、うまく生きていけないのではないか。

 私は、世間で「実用的」と言われるものの方が観念的だと思う。自分の生身の経験を通して確認せず、人の言うことをそのまま尺度にするわけだから、それはやはり”観念的”ということだろう。

 自分の五官・・・、手触り、肌触り、人間と会ったり話したりした時の実感、本や絵を見た時の、言葉になりきれない気持ち、人間以外の世界との間に生じる自分のなかの感覚、それら自分以外のものとの接点において生じるものこそが、”自分”なのだと私は思う。

 その自分を尺度にして生きていくことは、観念的ではなく、自分にとってとてもリアルなことなのだ。その感覚を総動員することで、とても敏感なセンサーになる。そのセンサーに従って現実社会で仕事をするコツを掴めば、営業成績だって向上することが可能なのだ。

 営業のハウツーを読んで営業成績があがればいいのだが、そうならない現実があるから、みんな苦しんでいる。自分というセンサーが最大限に発揮されなければ、いくらマニュアルを読んでも成績があがるはずがない。人の心の機微、場の気配、相手との間合い等を読み、それに応じた対応をするといったマニュアル化できない領域に、仕事がうまくいくコツが潜んでいるのではないか。

 現代社会には、「現実がどうのこうの」と観念的現実が増殖していくが、その現実を生きていくのは生身の自分自身であり、その自分を何とかすることが先決なのだと思う。

 ”自分を何とかする”というのは、他人の尺度を自分に当てはめるということではなく、どんな仕事をするにしても、自分のスタイルを時間をかけながら整えていくことだろうと私は思う。そして自分のスタイルというのは、頭で考えるだけではできず、自分の実際の行動と、その検証を通すことなく整っていかないだろう。その検証のために、人間とは何か、自分とは何か、人間と人間以外の世界との関係は何か、自分と自分以外の世界との関係は何か、ということを追求する思考特性や行動特性が必要なのではないか。

 モノゴトを学ぶというのは、知識を詰め込むことではなく、この世界の現実に応じるために、自分の生きるスタイルを、自分の五官の全てを使って検証しながら整えていくことではないかと私は思う。

 本を読んだり、絵を見たり、人と会ったり、様々な活動をしたりということが、自分の生きるスタイルを検証しながら整えることと無関係であるのなら、それは本来の意味での”学び”とは別のことであり、”虚栄”という言葉の方が相応しい気がする。