不気味な動き

 自民党民主党大連立構想をお膳立てしたのは、読売新聞グループの渡辺恒男会長や、日本テレビ取締役会議長で日本民間放送連盟名誉会長の氏家斉一郎らしい。ともに81歳の、新聞、テレビ界の出世競争でのしあがった権力者だ。

 民主党党首の小沢一郎は、大連立に乗り気だったらしいが、民主党内で反対されたために「けじめをつける」ために辞職すると言っている。自分の考えが党内で反対されるのは不信任を受けるに等しい、だから辞めると言うのだが、次の選挙を小沢のリーダーシップで戦いたい民主党議員への揺さぶりではないか。

 今の日本の政治状況は、自民党民主党以外は存在感がなくなっている。二大政党が均衡を保つことで政権政党の暴走を抑制することが二大政党の意義であり、そういう思いもあって民主党に票を入れた人も多いと思う。しかし、この国の二大政党は、あっさりと手を組んでしまう可能性がある。そうなってしまうと、戦前の大政翼賛会と同じだ。戦争がやりたくて大政翼賛会になるのではなく、差し迫った対外政策を早急にまとめあげて国家としての窮地を脱するためという理由で政党が手を組む。国際協力や北朝鮮問題が大義名分になり、法律の改正を速やかに進めることが大事だという論評で新テロ対策特別措置法を成立させ、憲法改正まで展開していく。そのように決定される法じたいが強大な権力となり、その法の名の下に、国民は従属させられる。読売や日本テレビに限らず、メディアは、そうした流れを加速させる。

 渡辺、氏家両氏とも親しく、今回の「大連立」の動きにも関与したとされる中曽根前首相は89歳だが、この国の年寄りはいったい何を望んでいるのだろう。

 権力を持った人間が、なかなかそれを手放さず、権力をふるう快感にひたり続けたいというのはよくわかるが、それだけじゃないような気がする。

 渡辺、氏家、中曽根といった人たちは、自分があと何年も生きられないのはよくわかっている筈だ。

 彼らは、自分が生きている間に、自分たちが築いてきたものがみすみす失われたり奪われたりしないような仕組みを作り上げておきたいのだろう。自分の目の黒いうちは、それをぜったいに許してたまるかという思いがあり、自分が死んだ後のことも心配で、手を売っておきたいという妄念があるのではないだろうか。

 自分たちが築いてきたと自負しているものは、戦後の日本の繁栄だ。そして、自分の組織の社会的影響力だ。そうした物が無に帰ることに極端にナーバスになっている。なぜなら、そうなってしまうと、自分が生きてきた軌跡も無になってしまう気がするからだろう。

 彼らは、自分が存在したことの立派な証しが欲しい。大きな銅像を立ててもらって、自分が死んだ後も今と同じように、一目置かれる存在でいたい。

 テレビなどでも、80年代にキャスターや司会が脇役から主役になった時にメインだった人が、60歳代や70歳代になった今でも、そのポストについたままだ。彼らは、この10年、20年で経験を積み重ねてきて、一時代を築いたという自負があるだろう。その下の世代は、年功序列のなかで上に支配され続け、今もって上の世代がのさばり続けているから、経験するための機会もあまり与えられない。

 上の世代は、例えて言うならば、固い角質のように皮膚の上にへばりついている。古い角質が落ちないと、新陳代謝が損なわれ、肌はみずみずしさがなくなり、硬直化し、不健康になる。

 メディアと政治が同じように年寄りがのさばりやすいのは、ともに既得権を持つものが圧倒的に優位になる構造だからだろう。既得権を持つものが圧倒的に優位な構造のなかにいる者は、その既得権を手放すことが恐くて、不安でしかたがない。だから、ますますそれに固執する。自分が死んだ後まで、それを維持しようとする。

 そうした輩の支配構造のなかにいる人間は、長い間、主従関係に慣されている。口では色々言っても、実際の行動では、上に追随する。それが自分の保身にもなる。

 もちろん、メディアのなかにも、そうした動きに意義を唱える人もいるかもしれない。しかし、その人々もまた、いざという時に、現在自分が獲得している既得権を手放す覚悟があるかどうかが問題なのだ。組織に所属していた方がメリットがあるという気持ちがどこかにあるかぎり、けっきょく、組織内のムードに乗るしかない。

 そうした今日のメディアや政治は、今日の社会に生きる私たちと切り離されたところにあるわけではない。むしろ、今日的社会の表層的価値基軸を端的に表す鏡なのだ。

 組織に所属していた方がメリットがあるという意識は、会社に限らず、社会組織や国家組織とも結びついていくだろう。

 多くの人は、自分が所属する組織が自分にとってメリットある状態を望む。国家や社会だけでなく、就職活動、なかには結婚においても、そうした傾向はある。

 「そんなこと当たり前だろう」と開き直り、それを当たり前だと思うことを疑う気持ちすら薄れてきている。

 しかし、政治もメディアも、日本国民に、日本国に所属していることをデメリットだと感じさせないように動いている。もしくは、デメリットになりそうな部分を大騒ぎして、今以上にメリットある状態に向かおうと呼びかける。それが戦後民主主義だ。それが彼らの言う愛国心だ。

 物理的にそれが可能な時は、実際にそうした努力をするかもしれないが、物理的に難しくなれば、“デマ”を使ってでもそうするだろう。

 物事の判断材料がメリットかデメリットかということばかりの思考特性に陥ってしまうと、そうした“デマ”にも騙されやすいし、そうした“デマ”を作ることに対する抑制心もなくなってしまうだろう。

 恐いのは、その時だ。彼らはきっと、私たちのなかに巣くう、メリットとデメリットの分別に付け込んでくる。

 戦争はしたくてするものではなく、そうしないことの方がデメリットが大きくなってしまうと国家的に判断せざるを得なくなり、その論理に国民も納得してしまう時に、必然的にそうなってしまうのではないかと思う。

 政府が掲げる”テロとの戦い”が自分たちにメリットありと判断したからこそ、アメリカ国民の90%がイラク攻撃をとなえるブッシュ政権を支持し、イラク戦争がはじまった。

 そして、今も、イラン攻撃を支持する国民が半数を超えているとアメリカのメディアが伝える。それがデマなのかどうか、私たちに判断することは、とても難しくなってしまっている。