しっかりとした子供!?

 幼稚園の年長の息子が、来春から入学する予定の公立小学校の親子面談を受けた。

 公立小学校だから、お受験用の面接ではなく、小学校側の情報収集のためだ。

 「幼稚園では、友達はたくさんいるのかな?」と先生は問う。

 息子は、先生の方を見ず、横にいる母親の方に向かって、「たくさん? うーん、みんな友達だよお」と答える。 

 母親は、「先生に向かって話しなさい」と注意する。

 「幼稚園では、何して遊ぶのかなあ?」

 「うーん」とうなって、息子はなかなか答えない。

 「幼稚園では何も遊ばないのかあ?」と先生が聞く。

 「そんなの、いっぱいだよ」と息子はまた横の母親を見て答える。

 「いっぱいって?」

 「だって、今日は縄跳びしたでしょ。その前は、何かいろいろしたよ」と、相変わらず息子が先生を見ないので、母親は、先生に見えない所で息子のお尻を叩く。

 すると息子は、「ねえ、さっき、どうしてお尻をたたいたの?」平然と言う。

  母親は少し怒って、「先生の方を向いて話しなさい。」

  先生も、「そうよ、先生の方を向いて話しなさい」と、きつい調子で言って、

 「それで、きみは縄跳びできるんだ。上手に跳べるかな?」

 「家でする時は、300回できたけど、幼稚園だと、80回しかできなかったよ」と、息子は先生に向かって答える。

 「幼稚園だと、どうしてうまくできなかったの?」

 「うーん、なんでかな・・・・・。えっと、たぶんね、家ではゆっくり跳んで、幼稚園では早く跳んだからうまくいかないんだ」

 「幼稚園で早く跳ぶのは、友達と競争するからなのかなあ?」

 「うーん・・・・、縄跳びで競争するって、わかんない」

 というようなやり取りだったらしく、母親は笑いながらも、「もう少しはっきりと受け答えできると思っていたのに」と、ぼやいていた。

 先生の話では、息子の対応が良いとか悪いとかは言わないけれど、やっぱりお受験のための塾とかに通った子供は、こういうやり取りでは、先生の方をきちんと見て、とても上手に答える。つまり、「しっかりとしている」らしい。

 上のような質問に対して、友達の数とか友達の名前を具体的に述べたり、幼稚園で行う遊びを一つ二つだけ明確に答えたり、縄跳びを上手に跳べなかった理由をそれらしく説明したりすると、「しっかりしていますねえ」ということになるらしいが、私としては、そんなの全然つまらないなあと思う。

 幼児の段階で受け答えをきっちりできるというのは、用意された答えをアウトプットするだけであり、その時々、小さな自分の頭で考えていないことだろうと思う。

 答になるかならない微妙なところで、「うーん」と呻っている方が、よほど子供らしい。

 けっきょくお受験用の塾は、大人が望み、決めたパターンの中に子供をはめこむということなんだろうと思う。その方が、審査員の大人からウケがよくなる。だから、お受験で有利になる。

 息子は、絵を描くのが好きだけど、幼稚園の絵を描く時間の時でも、周りの子供たちがササッと大雑把に描いて提出して外に遊びに行ってしまっても、なかなか描き出さず、真っ白なまま30分以上経ってしまう。そしてようやく描き初めても一本の線でくっきりと描くことはしない。レオナルドダヴィンチのスフマート技法のように物の輪郭を何重もの薄い線でぼかし、陰影で示すのだ。だから、天真爛漫な絵にならず、暗い感じになる。

 先日、先生が、「好きなものを描きなさい」と言い、「えー、好きなもの」と悩みに悩んだあげく、余白いっぱいのなかに、薄く黄色に塗った太陽と、薄く青に塗った亀を描いたそうだ。その絵は、先生からは、とても寂しそうに見えた。

 先生は、「子供は普通こういう絵は描かないんですがねえ」と感想をもらし、母親に、「けんしろうくんは、お母さん子ですか」と遠回しに聞いてきた。

「そんなことないと思いますよ。休日に父親と一緒に散歩したり、美術館とか出かけることが多いですし」と母親は答えたが、どうやら先生は、息子の絵の暗さから、家庭の不和を勘ぐったらしいのだ。

 息子の性格を暗いと私は思わないのだが、一緒に自然教育園を散歩している時など、質問攻めに合うことがある。「カエルは誰がつくったのか?」とか。その場凌ぎに、「神様だよ」と答えたりすると、「じゃあ、神様は誰がつくったの」となる。「神様は最初からいるんだよ」と答えても、その「最初から」というのがどうもピンとこないという顔をする。

 うーん、困ったものだ、何からどう説明すべきなのか、思い悩み、ビックバンの話をしたこともあるけれど、最初の爆発が起こる、その最初というものがうまく説明できない。じゃあ、その前は、となる。

 大人だって、先生の方をまっすぐに見ながら自信満々に用意している答えを出せない問題は山積みなのであって、「うーん」と呻るしかない。

 とりわけ、大人同士のように、共通の便宜上の約束事を共有している場合は、それを前提にその時だけ通用する答えを述べることができるが、その当面の諒解事項が通じない相手にきちんと答えることは、けっこう難しいことだ。

 息子の問いに、「うーん」と呻って、なかなかうまく答えられない私の答え方が、もしかしたら息子にうつってしまっていて、学校面談でもうまく答えられなかったのかもしれない。

 それでも私は、子供は子供として完成していると思っている。

 子供として完成するというのは、「大人のようにしっかりとする」ことではなく、「ふにゃふにゃ」こそが、子供時期における必然の完成形なのだと思う。

 「しっかり」こそが全てにおける完成だと思ってしまうと、どんな子供でも不完全にすぎず、大人になるためのプロセスだという受け止め方になってしまう。

 子供は、「ふにゃふにゃ」という状態にもかかわらずバランスをとって完成して生きることで、より柔軟に情報を取り入れ、より柔軟に対応する術を培っていく。

 「しっかり」こそが全ての段階において完成だと思っている大人は、その「ふにゃにゃ」を心配して否定して奪い取ろうとするが、「ふにゃふにゃ」がないまま大きくなっていくと、「しっかり」と完成した大人になるとはかぎらず、堅いけれど脆いという不完全な状態になることもあるだろうと私は思う。

 ようするに、子供時代に要領が悪いくらいの方が、葛藤も多いから魂の地力がつくのではないか。子供時代に要領よすぎてスイスイ泳いでいってしまうと、社会に出てからが大変かもしれない。人生は、社会に出てからの方が圧倒的に長いのだから、子供時代は、要領よりも魂の地力がつくことをやればいい。そういうことは、柔らかい頭をもっていて、失敗が許され、それが糧になりやすい子供時代だからこそできることであって、ならばそうしないことの方が、子供にとって不完全ということになるのかもしれない。

 とはいっても、「他人に迷惑をかけない」という最低限のルールだけは、早い段階から厳しく教えなければならないだろうけれど。