これからについて

 第25号〜第30号(2008年2月発行)まで、大竹伸郎さんに表紙を制作していただき、「われらの時代」というテーマで、号を重ねてきました。

 第31号(2008年4月発行)からは、望月通陽さんに表紙を制作していただき、「永遠の現在」というテーマで、編集をしていきます。

 「永遠の現在」というテーマは、創刊の時から流れているものではありますが、それをより意識的に、誌面に反映させるということです。

 私たちは、今この瞬間に影響を与えている「過去」から、今この瞬間の影響を受けていく「未来」まで含んだ「時間全体」の中の一瞬一瞬を、不可逆的な波となって、複雑精妙な関係性のなかで様々な影響を受けたり与えたりしながら生きています。すなわちこの一瞬の営みは、どんなものでも未来に対して何らかの揺らぎと影響を与えていく可能性を秘めたものです。

 しかし、今日の知識・情報社会で教えられることは、私たち一人一人の営みとは関係なく遠い昔に「時間の始まり」があって、それが「終わり」に向かって進んでおり、その予め定められた直線的な時間の中に個々の営みが位置づけられているという概念です。

 私たちは、本来、関係の波を受けて次の波に伝える波の一つであるはずなのですが、現代社会の時間概念によって、波間に浮かび不安定に揺らぐ小舟のようなイメージを与えられています。

 そうしたイメージは、いったいどこで作られるのでしょう。

 例えば、現在科学の精鋭を集めて行われている「宇宙論」で定説になっているビッグバン説などにおいても、その最初の大爆発があったとされる「時」と「場」は、私たちがまるでリアルに感じられないものとして奉られ、あたかも聖域のように、そのことについて語ったり考えたりできるのは、一部の階級に所属する人のみとなっています。

 一部の人が決定する「時間概念」や「宇宙概念」に対して、その他の大勢は、疑問に思わずに素直に有難く頂戴しなければならないという教育を、私たちは受けています。

 そういう態度が、この社会の良識ということになっています。

 「時間概念」や「宇宙概念」など、私たちの存在の根本のところで、そうした「専門家」→「その多大勢」という一方向の知識・情報伝達の構造に支配されているため、人生の営みにおける様々な局面においても、同じようなことが生じます。

 人生において有益とされる「情報・知識」を作り出すのは一部の人間であり、それを、その他大勢は、素直に受け止めることを暗黙のうちに強要される。「情報・知識」を作り出す現場において何がどのように行われているかを、その他大勢は知る由もない。知る必要すらないと思われており、専門家だけにその権限が与えられ、そこで作られたものを、黙って受け取ることが課せられています。

 科学であれ、政治・官僚であれ、大学であれ、マスメディアであれ、そのような権威的構造は似たようなものでしょう。

 自分個人のリアリティではなく、誰かが決めたことに従うことが有益であるという価値観がはびこっています。

 しかし、そのようにして与えられる「情報・知識」は、この社会で生きていく上の便宜上のものでしかなく、私たち一人一人の「時」と「命」において、何ら本質的なものでないということを、その他大勢は知っておかなければならないでしょう。そうでなければ、「情報・知識」を供給する側の都合に応じて、自分の人生を振り回され、場合によっては操られることになってしまいます。

 私たち一人一人とは関係なく「時」や「場所」があって、そのどこか一部分に私たちが小舟のようにたよりなく浮かんでいるという考えのもとで過去や地理上の客観的知識や情報を集めていくと、私たち一人一人は、巨大に膨れあがる世界のなかで、取るに足らない塵芥のような存在であるような気がしてしまいます。

 この時代の支配的な価値観において、「悪」とされることは、個々の存在を塵芥のように扱い、「善」とされることもまた、自らに対して塵芥のような存在であるという謙虚な自覚を要求します。いずれにしろ、大きな世界を前にした個々の「無力感」が漂っています。個々が無力ゆえに、集団的な動きに依存しやすいということもあるでしょう。

 善であれ悪であれ、私たち一人一人の存在を取るに足らない小さな小舟のように思わせる支配的な何かが、この時代にはあるような気がします。それはごく一握りの極悪人の権力者による陰謀という単純なことではなく、そのように手懐けられた現代の思考特性に、多くの原因があるような気がします。「知識・情報」の川上にある組織に所属して優越を感じている人もまた、その組織内で、取るに足らない塵芥のような自分を意識し、悶々としているように感じられます。

知識・情報の送り手は、自分個人が感じるリアリティを抑え、自分が所属する組織全体で祖語をきたさないということを、優先する。その結果導き出される「現実」と、自分の「現実」には、ギャップがある。

 情報・知識の送り手でさえ「自分のリアリティ」だと感じ取れないものを、それを受け取る側が、リアリティを感じることは不可能でしょう。

 「リアル」に感じられないものを自分のなかに蓄えて、それに従って生きていると、自分の人生に対してもリアリティを感じられなくなる。生きているのか、死んでいるのか、わからなくなるというのは、そういう状態を言うのではないでしょうか。

生きていることはすなわち、様々な関係のなかにあるということでしょう。

 そうした関係を通して自分の中に生起するものは、社会現実のなかの時間概念や宇宙概念の知識・情報とはまったく別のリアリティをもっています。

 恋しい人からの連絡を待つ間の「時」は、とてもつもなく長く、その人と過ごす「時」は、とてつもなく早く過ぎますが、思い返す時は、とても長く感じられます。 

 また、その人とともに過ごした場所は、自分にとって特別なものになります。

時は場所は、常に相対的なもので、関係の中で生起してきます。その時や場所は、構造的に分離、分解、分析して抜き出せるものではなく、それそのものが丸ごと一体化した波のような状態ででしか感じ取れず、そのリアリティを次に伝えることもできません。

 小説であれ、映画であれ、その作品のなかだけで成立する固有の時と場所が生じているのであって、その時と場所を通してしか、作り手のリアリティは伝わりません。その時や場所を一般概念で語っても、それは作品そのものとは別のものになってしまうでしょう。

 本来、表現というものは、分離不可能なリアリティを丸ごと包含するものだったはずですが、今日の多くの表現は、分離、分解、分析のための有力な道具として機能しすぎてい

る言葉(思考)の従属物になっているような気がします。言いかえるならば、命ある作品が、評論家に裁定される存在に貶められているような気がします。

 しかし、そうした権威構造に絡めとられた知識・情報の伝達は、ここ数年、少しずつ変化をみせているように感じます。

 インターネットの急速な普及ということも大きな理由でしょうが、道具によって時代が変わるというよりも、時代の空気として、そういう道具を求めているという気もします。

 時代の空気として、権威的構造から発せられる知識・情報にリアリティを感じられず、それをそのまま受け入れることに耐えられなくなってきています。

 裸の大様のように、権威を権威だと思っているのは権威のなかと周辺にいる人だけであって、その他の人にとっては、どうもよくなってきています。

 メディアや文部省などが「学力低下」を嘆いてみせるけれど、その「学力」というものも、既存の権威構造が作り出して、それを維持するための「学力」にすぎず、それとは別の智慧というものがあって、そういうものを求めている人が多くいるという可能性もあります。

 この世界は、不動の二元論的秩序に支配され続けるのではなく、少しずつ、流動的に変化してきている。

 その流動状態のなかでは、一人一人のリアリティにそって、一人一人が生きる「時」や「場所」が生じ、それらの「時」や「場所」が寄せ集まり、互いに影響し合い、時に反発したり重なったり増幅したり打ち消し合ったりしながら、全体としてなるべくして整えられた波となって、うねうねと伝わっていく。

 一人一人は、波間に浮かぶ小舟ではなく、波そのもののように生きている。そうした感覚がリアルになれば、「時」や「場所」に対する概念も相転移を起こすのかもしれません。

 そうした感覚がより明確になるように誌面を作っていきたいと考えています。