現代社会の土壌

 目黒美術館で行われている写真やアートなどの若手作家の展覧会を見る。

 この展示でもそうだが、昨今の若手アーティストたちに対して、学芸員などが、「知性と感性が感じられる」という誉め言葉をよく使う。品が良くて、すっきりと整えられたものを、そのように評価することが多いが、「知性と感性が感じられる」という言い方をされるものの多くは、デザインに工夫を凝らしたプラスチック商品のように私には見える。それらには「情動」があまり感じられない。

 アート作品もインテリア風になっているから、お洒落な「知性」と「感性」が好まれ、「情動」は敬遠される傾向にあるのだろうか。

 若い表現者のプロフィールを見ても、大学院とか海外留学というのが多い。学校で表現の方法論を学び、その延長に表現があるわけだから、知性と感性なのだろう。学芸員も同じだ。学芸員になるには、その種の学歴があればよい。学校でアートを勉強し、卒業して、アート関係の仕事を見る。それ以外の世界とはあまり縁がない。だから作家と学芸員は話が合うだろう。自ずから、人間の生身の生活のなかに蠢く「情動」とは無縁になる。

 作品を見に来ている若い人も、そうした表現関係の学校通いの人が多いみたいで、みんなすっきりと小ぎれいで、熱心だ。しかし、ワークショップでの質問など聞いていると、表現の内実に迫るものはほとんどなく、「この写真はどこで撮った、そこはどんな所か、暑いのか寒いのか、宿は在るのか・・・」といったもので、「表現写真」を見ているのはなく、「テレビ画像」を見ているのと同じような感覚なのだろうかと思った。

 その後、目黒駅の書店に立ち寄る。

 いつも書店に行って、「風の旅人」が置かれているのを見ると、いたたまれない気持ちになる。周辺には派手な雑誌が溢れ、表紙面に活字が賑々しく踊って様々なことを主張しているのだが、そうした渦のなかにいると、「風の旅人」があまりにも貧相な存在のように思われてくる。

 昨日は、書店のいろいろなコーナーをまわり、何かヒントがないものかと、文芸誌を手にとって中ののぞいてみたり、大量陳列されている流行本などを見てみたりした。

 「文学」も「科学」も、小さな穴のなかで、その穴のなかの住人にだけわかり合えるものを共有しながら、ああだこうだとやっているという印象がある。

 「文学」には「文学者」のなかだけで成立するリアリティがあり、「科学」にも「科学者」のなかだけで成立するリアリティがある。「映画」や「小説」や「絵」や「学問」や「科学の公式」のなかのリアリティは、その作品や公式のなかに自律して作り出せばよく、社会の中で伝えられる「事件」などの現実に擦り寄る必要はないという考えもある。そういうものは、既にテレビや新聞でしつこく見せられているのだから。

 とはいえ、小さく切り分けられて「自律」した表現や科学的公式が無数に溢れている状態というのも、現実を俯瞰した時の印象である。全体から見れば、一つ一つは、無数の細部にすぎず、日々、消化される存在だ。

 大学などにいくと、聞いたことのないような名前の学部がたくさんある。美大や表現系の専門学校などでも、そのジャンルの多彩さに、わけがわからなくなる。

 土の中の無数の微生物のように、一つ一つは識別できないほど細かくなっているけれど、全体として有機的に働き合いながら構成されているのが、現代社会ということだろう。

 ということは、現代社会の様々な良い面も、それらの細部の総合の結果だし、指摘される悪い面も、それらの総合であり、自分の領域だけ、その悪い面の外でそれを正すことができるなどと考えるのは、大きな間違いだということだ。

 よく一部の科学者とかメディアの人で、科学やメディアが引き起こす問題などに対して、「それを行う人の心構えの問題であり、自分は別だ」というポーズをとることがあるが、そうではなく、科学やメディアの土壌じだいに、そういう問題を引き起こす種が宿っており、その土壌をつくりあげている一部に自分が加担しているという自覚は必要なのだろうと思う。

 私たち一人一人が、微生物のような存在にすぎないけれど、それが無数に集まって有機的に関係し合うことで、現代社会という土をせっせと耕している。そして、そのように耕された土にうまく作付けをして大きな収穫をあげることを目的とする動きもある。

 大人気のゲーム機などもそうだし、ベストセラーになるハウツー本などもそうなのだろう。多くの企業活動は、現実社会という土壌を調査して、何を作付けすれば効率よく収穫をあげることができるかを目指している。

 文学、芸術、科学、学問、報道など様々な表現系微生物が混合しながらせっせとつくりだした「現代社会という土壌」に、企業がせっせと作付けをする。収穫の効率をあげるために、広告という表現のなかでは化学肥料に該当するものを大量に撒き散らす。その化学肥料にまみれた食べ物をたくさん食べて、人々の知性と感性はつくられる。そこから新たな表現者学芸員も生まれる。

 この社会に生きることは、この社会の土を今あるようなものに作り上げる微生物になるのか、その土に作付けをして収穫するのか、化学肥料になるのかのうち、どれかであり、自分はその外にいるなどというのは、現実認識が弱いということにすぎない。

 それでもそれが厭というなら、できるだけ化学肥料を使わずに、微生物などを吟味して土壌改良を行い、自分が食べたいものを作付けして手間ひまかけて育てて作り、それを食べたい人にだけお裾分けするしかない。