田口ランディの新作「キュア」を読む

 田口ランディさんの新作「キュア」は、凄い作品だった。

 言葉の力を、改めて強く認識させられた。これは、小説だが、純文学とか、エンターテイメントといったカテゴリー分けを無意味化して、田口ランディというジャンルを一つ確立しているとさえ思った。

 様式なんてどうでもよく、この作家が見据えて言葉で迫ろうとしているのは、現代のパラダイムだ。かつて手塚治虫が時代のパラダイムに真正面から向き合う力を獲得するために、絵と言葉で「火の鳥」を創造したように、この作家は、言葉の力だけで、それをやろうとしている。

 このような言い方を御本人が聞くと、大袈裟だと照れるだろうが、私は本心でそう思った。

 プロローグの燕の美しい描写は、上質な純文学の文体で書かれている。その美しい描写に見とれていると見逃してしまうが、燕の飛び方を描写する美しいセンテンスに、何げなく、現代のパラダイムに対する鋭い問題提起が含まれている。

 鳥が飛ぶという行為を、羽を団扇のように使ってバタバタと空気を扇ぐことで飛翔したり前に進むという発想でしか、今日の我々の頭では把握できない。

 しかし、揚力が得られそうもない地面スレスレを自由自在に飛び交う燕を見ていると、私たちの認識を超えた力がそこに働いているように感じられてしまう。筆者は、「燕は、風を掴んで飛んでいる」と表現するが、風を掴めない人間には及びもしない現実のあることが、この小説のプロローグのなかで美しく織り込まれている。

 今日の私たち人間は、自分の頭のなかで世界を理解しようとするが、世界は、明らかに私たちの頭の中身を超えている。私たちの頭の中身を超えているものを、現代の私たちはオカルトとみなしがちだが、そうではない。燕の飛翔のように、私たちにはとても真似のできない力が、この世界には無数にある。

 「キュア」は、病院を舞台にした今日の医療の在り方を中心に物語りを進めながら、癌という病を、それぞれの方法で乗り越えようとする人々の生き様が真正面から描かれている。

 死に直面することで、生と死の意味を問い、それをどのように受け止めるか、悩み、苦しみ、闘う。抗ガン剤や手術といった科学的治療によって救われる人もいるし、それによって不幸になってしまうケースもある。そして、自らの意思で科学的治療を拒む人もいれば、自分の意思に反して、治療の見込みがないという理由で、科学に見捨てられる人もいる。どんな人間も最終的には死ぬことが定められているが、普段はそれを忘れており、癌を契機に「死」と向き合わざるを得なくなった時、どう生きて、どう死ぬかの決断を突然迫られることになる。その底知れぬ葛藤は、当事者にしかわからないことだ。

 この表現者は、きわめて困難なこの主題を勇気を持って掘り下げていくために、科学と反科学の単純な対立概念に持ち込まれないように、プロローグの時点から、慎重に慎重に筆を進める。

 この小説の主人公は、ゴッドハンドと呼ばれる不思議な能力を持つ若い医師で、多くの癌患者を救いながら、自分も癌に侵される。

 不思議な能力といっても、それは現代の人間の理性では捉えにくい能力というだけで、燕の飛翔のようなものかもしれない。鋭い直観力もまた理性が及ばないということで同じであり、理性の裏付けがとれないからといって、簡単に否定できるものではない。

 と、今私がこのように知ったかぶって書くのは簡単だが、大事なことは、そうした理屈ではなく、理性の裏付けのないことをリアルと感じさせる、燕の飛翔のように説得力のある表現なのだ。

 表現に説得力がなければ、理性の及ばないことは、私たちの現実に肉薄できない。つまり、「不思議な能力」というだけで、暇つぶしのエンターテイメントになりさがってしまう。

 「火の鳥」が現実に存在しないからといって、手塚治虫の創造が、ただの架空の読み物ですまないように、田口ランディのつくりあげるフィクションも、その構成や表現の素晴らしさによって、私たちの現実に鋭く肉迫してくるものになっている。 

 それがこの作家の凄さなのだ。「田口ランディという一つのジャンルの確立」と私が思うのは、現実と非現実をまぜこぜにしながら、その境界がなくなり、最終的に、現実のリアリティが「私」と「社会」の両面全面にわたって強く残るからだ。いわゆる純文学と呼ばれるもののなかで、「私」の狭い現実に閉じたものや、エンターテイメント(週間誌の三面記事のような報道も含む)で、「社会」の表層現実をなぞるものは多いが、「私」と「社会」の両面にわたって、現実の深いところに降りていける文章作品は、極めて稀だと思う。田口ランディは、その固有の作品世界において、それを成し遂げている数少ない作家だと思う。

 従来の文学評論では、こうした作品がどのように扱われるか私は知らないが、権威の壁のなかで胡座をかいた論評には、まったく興味が持てない。

 「キュア」は、構想の素晴らしさやストーリーの魅力、描写の美しさや迫真性によって、読者は、物語のなかにグイグイと引き込まれていくのだが、ドラマチックな物語を読む至福の時を味わうだけではすまされず、生と死の苛烈な現実を自分ごととして引き受けざるを得ない状態に置かれる。

 「キュア」は、死をできるだけ遠ざけて生きていきたい現代人を、生と死の根元的な問いの前に引きだす。その究極の状況において、この作家は一つの正しい解答を示すことなどしない。

 科学的医療は、横暴で無力な一面を持つが、確率論として救いにつながる可能性も高いので、それにすがる人もいる。人生観として科学の横暴さに耐えられない人は、宗教など別の道を探す。

 目の前の現実から目を背けさえすれば、どこへでも逃げることができるが、逃亡する自分を正当化できる人もいるし、苛烈なまでの現実を背負いながら、逃亡する自分を許せず、最後の最後まで、出口のない暗闇のなかで喘ぐ人もいる。

 癌という究極の状況だからこそ、その人の生の本質が露わになる。どれが良いとか悪いとかではなく、自分の生は、自分で引き受けざるを得ないという当たり前のことが、そこにあるだけなのだが、その当たり前のことを知ることは、とてつもなく難しい。なぜなら、現代の私たちは、あまりにも自分の生について他人任せになっており、それに無自覚であるからだ。

 キュアに登場する人物たちは、癌と向き合うために、それぞれ自分で考え抜いて苦しんで別々の選択をする。自分のことだから、自分で決めるのだ。

 どうせ誰でもいつかは死ぬ。自分で選択したことを、自分で受け入れること。死に臨む際に、それまで獲得した冨や名声の大小によって心の持ちようが変わるとは思えない。人生における自分の選択を、自分で受け入れること。安らかな死は、そこにしかないように思う。

 それが正しいかどうか、そこに至ったことのない私には正確にはわからない。しかし、一人の創造者が作り出した表現によって、そのことをリアルにイメージすることは可能なのだ。そのリアルさこそ、表現のいのちだ。生と死という究極の選択を、当事者でない読み手でさえリアルなものとして感じさせずにはおれない「キュア」という作品は、その意味において、大きないのちを宿らせた作品だ。そして、何よりもこの小説は、現代社会において、もしかしたら癌よりも根深い病に対するキュア(治療法)でもある。

 その根深い病とは、自分の頭のなかの知識・情報で現実世界をわけ知ったつもりになってしまうのに、自分の生と死の現実を、自分の頭で考えるのではなく他人任せにできてしまう病のことだ。科学であれ、オカルトであれ、それそのものが良いか悪いかということよりも、集団的に、盲目的に、その権威に丸め込まれて、いとも簡単に運命をあずけてしまえるところが、病なのだ。その病と闘うところから私たちは始めなければならないと、この小説を読み終えた今、改めて思うのだった。 



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