「事物」を見ることと、「言葉」ですますこと

 言葉は大事だけど、言葉だけで事足りるものではないだろう。
 なのに、今の日本社会は、どうも言葉が立派な顔をしすぎている。先週、映画監督の小栗康平さんと話している時にもそういう話しになったが、日常でも、そう感じさせられることがたびたびある。
 たとえば、私は、このホームページに偉そうな「写真論」を書いている。この言葉で書かれた「論」は、「論」として主張することを目的としているのではない。私は、「風の旅人」を制作するうえで重要視していることを、言葉で振り返っているにすぎない。言葉は、「事物」と完全に一致することはできない。「事物」に対して、言葉はどこか足らないところがある。足らないことを自覚しながら、それでも「事物」に近づこうと足掻くことが、文章を書く人の文体になるのだと私は思う。その文体のなかにこめられた思いが、文脈になり、文脈を通して醸し出される「掴み」が、事物から醸し出される「掴み」に、どれだけ近づけているか。完全に到ることはできないけれど、近づいていこうとする気迫なり気配が、方向を指し示す。すなわち、言葉は、「事物の方向を指し示す」という役割にすぎない。
 私が書く写真論も、「風の旅人」という事物の方向を指し示すものにすぎない。
 ところが、私の写真論を読んで共感しましたと言って写真の売り込みの電話をしてくる人で、実際の「風の旅人」を全く見ていないというケースが最近とても多い。
 私が言葉で書いていることと、その同じ人間が実際に作っている事物のあいだの隔たりを、実際に自分の目で確認せずに連絡をしてくることが、私には不思議でならない。
 表現活動と無縁の人ならいざしらず、表現を行う人にとって、「言葉」と「言葉で言い尽くせないこと」とのギャップは切実なもので、その切実さが、その人独自の表現へと駆り立てる力となると私は思っている。
 だから、「言葉」と「事物」のあいだの隔たりを実際に自分の目で確認しようとも思わない人の表現は大したことがないだろうと、私はかってながら判断してしまう。
 とりわけ、私は、まさにそうした「事物」と「言葉」の隔たりに無頓着な社会の風潮に対して、ある種のやるせなさを感じながら「風の旅人」を作っており、「言葉」で簡単にごまかされたり丸め込まれたり抑え込まれたりしない厳粛な「事物」の力を、誌面で発揮したいと考えている。だから、「事物」に対して真摯に向かわず、「言葉」だけで判断する人がつくるものが、「風の旅人」の誌面と呼応するとは、とても思えないのだ。
 ましてや、どこか不便なところに「事物」を確認するために出かけていかなければならないほどではなく、書店に足を伸ばすか、ネットで購入してくれれば、すぐに手に入るものだし。また、書店でちょっと立ち読みしたという程度で写真の売り込みをしてくる人も非常に多いけれど、本を買って読んで、じっくりと向き合おうという気になれない雑誌に、なにゆえに自分を売り込むのか不思議でならない。
 私にそう言われたからという理由で、「じゃあ、読んでからにします」という学校の生徒のような答えをしても、どうにもならないような気がする。その程度の感覚だと、一、二冊見て、「はい、宿題を済ませました」ということでしかない。今日の学校教育の在り方がそういう類のものだし、不特定多数の大勢に向かって自分を売り込んでいれば誰かが引っ掛かるだろうというのが、広告手法をはじめ今日の社会の様相だから仕方ないのだけど、そういう色に安易に染まっている人は、今日の社会の様相に媚びて迎合するものは作れても、そこに揺さぶりをかけるものはできないのではないだろうか。
 もちろん、「そんなこと考えて表現したいと思っていません、表現は自分のためですから」と思う人も多く、何をどうしたいかは人それぞれの価値観であって、自分のやり方に添ったところに行けばいいだけのことだ。
 だけど、相手にとって迷惑でないかどうかを判断することも、表現者の大事な感受性だと私は思う。人の迷惑かえりみず、自分の好きなことをやって芸術だあ!という人もいるが、今の時代、”他者”との関係性に鈍感な表現は、肥大した自我の産物でしかなく、自我の膨張で歪んでいる現実世界に風を通す表現にはなれないだろうと私は判断している。
 それはともかく、小栗監督との話のなかで出たことは、現代社会の問題の一つは、とりわけ文化人の間で「言葉を牛耳っている人が偉い」という感じになりすぎていることだ。

 何か事件があれば、有識者と言われる学者が、テレビを通してもっともらしいことを言い、音楽や映画や美術や小説なども、評論家に誉められたり、新聞の書評とかで「ちょっと書かれる」だけで、喜んでしまうのだ。それらの中身はまるで大したことがないのに、権威的な衣を着せられて、崇められる。
 言葉は、「事物」を下支えしたり、その方向性を掴んで指ししめすものの筈なのに、言葉で説明することが「既成事物」になって一人歩きしてしまうのだ。
 そうした風潮にどっぷりと染まり、映像表現の多くも、言葉で説明できるストーリーに従属するものに成り下がってしまう。簡単に言うと、筋書きが言葉で決められていて、その言葉が映画を動かしていくということだ。映像をろくに見ていなくても、筋書きだけを追っていれば、内容がわかる。そして、その方が見る人も楽だから、暇つぶしの余興になって、興行的に成功しやすい。さらに悪いことに、そうした作品の方が評論家の硬い頭でも理解しやすいし、誰にでも理解できる言葉で誉めやすい。誰にでも理解できるものは、単に内容が簡単ということではなく、既成の価値観におもねっているために、誰にも合点がいくということだ。

 既成の価値観に騙されていることが多いということに無自覚なまま。
 現実の世界は、有識者の言葉に従っていればうまくいくというのは大間違いで、自分の目で見て、自分の目を通して事物の情報を収集して、自分のなかで統合して、そこに自分なりの掴みを得て、前に進んでいかなければならない。それは、とても自分に負荷のかかることだ。しかし、それを行うからこそ、自分の頭のなかで固定している世界像を、常に作りかえることができる。
 事物を見ずに、言葉で説明されているものに従って映画を見たり、現実を生きることは、とても楽なことだけど、自分のなかの世界像は固定したままになる。さらに、その固定した世界像をつくりあげる「言葉」は、宿命的な特性として「事物」の多くを殺ぎ落としているわけだから、それに従うことは、「世界の一部」に閉じ込められることになる。

 でも実際には、 「事物」と「言葉」のギャップの大きさを、誰しもそれとなくわかっており、だからこそ、多くの人が息苦しいと感じている。にもかかわらず、「事物」を確認するための行動を「固定した言葉」が縛る(「そんなことやって何の意味がある」、とか、「現実はそういうものだ」とか)から、なおさら不自由で息苦しくなる。
 「言葉」が偉そうにする風潮を野放しにすると、世界は、どんどんと狭く息苦しくなる。 事物を言葉に従属させてしまわず、事物を自分の身体で感じながら、自分のなかの言葉になりそうでなりきれない感覚を大事にする。そうしたことの継続なくして、事物を見ることの奥行きや、視界の広さは変わっていかないだろう。小栗監督のつくる映画は、まさにそういうものだ。そして、「風の旅人」も、そういう一つの「事物」になれればという思いで編んでいる。