小栗映画、不自由のなかの自由

 ポレポレ東中野で上映中の「小栗康平特集」で、先週までに、「死の棘」、「伽倻子のために」、「埋もれ木」を見て、今日は、「泥の河」を見た。

「泥の河」は、26年前、パリで見て、その時以来、小栗映画のファンになった。

「泥の河」は何度も見ているが、いつ見ても、胸の奥に響く。

「泥の河」は、小栗監督のデビュー作で、予算がまったくない状態で制作された映画だが、日本だけでなく海外でも高く評価され、興行的にもそこそこ成功したらしい。

 しかし、小栗監督の凄いところは、この映画で成し遂げた成功のパターンを、あっさりと脱ぎ捨ててしまったところだ。小栗さんは、「泥の河」以降、いかにして「泥の河」から遠ざかるかということを目指して映画づくりを行ってきた。

 「泥の河」は、低予算で撮られているが非常に良質の映画らしい映画だ。映画らしい筋立てがあって、落としどころがある。その落としどころに向かって効果的に画面が動いていき、効果的な音楽がかぶさる。何度も見ているから結末はわかっているけれど、その落としどころに来ると、ドキドキしたり、切なくなったりする。感動することを期待して、感動できる映画なのだ。そういうことを狙うだけなら、非常に完成度が高い映画であり、だからこそ根強い人気がある。

 しかし、小栗監督は、「泥の河」のような映画は、もう二度と撮る気はない。

 人を「感動」させることができれば充分だと考える表現者は数多くいる。しかし、小栗監督の目指すところは、「感動」というその場かぎりの出来事ではないのだ。

 ならば映画を通して、この監督はいったい何を目指しているのか。

 これまでに何度か小栗監督の映画に対する問題意識、とりわけ人間の視覚と言葉に対する問題意識を聞く機会があった。

 一つは、人間は、事物を見ているようで見ていないということ。事物を見ているのではなく、言葉によって見ているつもりになっていること。二つ目は、人間は“動き”だけを見てしまい、それ以外の多くを見落としていること。

 映画で言うならば、筋立てがあって、それに添ったナレーションや台詞があれば、映像をほとんど見ていなくても、内容が理解できてしまう。その場合の映像は、筋立てという言葉を補完するものでしかない。予め定まっている言葉の終着点に向かって映像が動いていくだけであり、そういう映画が非常に多いし、テレビ番組もそういう作りになっている。現代の情報媒体のほとんど全てがそうだと言ってもいいだろう。

 そして、人間が“動き”だけを見てしまうというのは、たとえばハリウッド映画などが特徴的だが、画面に大写しになった人物などが激しく動くだけで迫力あるストーリーを見ているような気になってしまう。

そうした際、人間は、その背景をほとんど見ていない。背景の部分が手を抜いて作られていても、手前の激しい動きに幻惑されて、ほとんど気づかれないのだ。

 小栗監督は、こうした視覚騙しに対する挑戦のように、「眠る男」という主人公がまったく動かない映画を作ってしまった。

 真ん中が動かないことで、背景の微妙な動きの豊かさが見えてくる。「眠る男」は、そういう映画だ。

 “動き”に目を奪われやすい人間の視覚に付け込んだものが現代社会には多い。というか、今日の消費社会は、人間の目と心を、“目立つ動き”に誘導することで効果をあげているといえるだろう。じっとしていると、目立たず、注目を浴びす、結果的に、埋没してしまうのだ。

 そのため、内実が伴っていなくても動きが目立つものばかりが世の中に溢れてしまう。

 そして、“動き”にばかりとらわれるようになると、ほとんど内実を見ずに、次から次へと動いていく表層の現象に振り回されることになり、ますます、事物を見なくなってしまう。

 そのように、“動き”と、言葉による“筋立て”によって、今日の人間は、事物を見なくなっている。事物を見て、自分で感じ、考えるということが非常に少なくなっている。結果として、事物と自分の間が大きく引き離されてしまうのだ。

 そうした問題を認識したうえで映画づくりを行う小栗さんは、自分自身が、その“言葉”と“動き”の問題から自由にならなければいけない。

 問題を認識している自分の心情を偽って、“言葉”とか“動き”に頼ることや、それ以外のことも含めて、事物と人間の間を引き離す作品づくりを行うことはできないからだ。

とはいえ、そうした“前提”から自由な映画作品がいったいどういうものになり、人間をどういう境地に連れて行ってくれるものなのか、監督自身も明確にわからないだろう。

明確に言葉でわかってしまっていると、その言葉でわかっているポイントに向かって筋書きを作ることになってしまい、映像は言葉に従属することになってしまう。だから、わかるようでわからないという状態のまま手探りで作り続けるということになる。それでいながら、映画という骨格を保たなければならない。ドキュメントの場合は、とりあえずカメラをまわしていると写っていることがあり、それを編集することで何か形が浮き上がるということもあるだろうが、映画の場合は、カメラをまわす前にセットを作らなければならないわけだから、構想の骨格が必然なのだ。そのように気が遠くなるほど困難な仕事を小栗監督は行っている。だから、映画監督として国際的に成功しているにもかかわらず、これまで5作しか作っていないし、作品と作品の間が、6年や9年も空いてしまっている。

 そのような不自由さを徹底することによって、小栗映画は、“言葉”や“動き”の前提から自由でいながら、映画としての骨格もしっかりとある作品ができあがってくる。

 “言葉”や“動き”にかぎらず映画づくりに付きまとう前提から自由になろうとする実験的映画は数多くあるが、小栗映画ほど、映画としての骨格を保っているものはないように思う。

 実験映画は、意味の無さを追求しているのかもしれないけれど、小栗映画は、既成の意味を壊して、新たな意味を打ち立てようとしているように感じる。意味を壊すだけなら簡単なことで、意味を新たに打ち立てるからこそ、真の表現なのだろう。

 ならば、そこに新たに打ち立てられた意味というのはいったい何なのか。

 その意味を、言葉で定着させることはできるのか。

 私が思うに、その意味は言葉で簡単に定着できるものではないけれど、はっきりとした事物としての形を持つ“世界像”として現れている。「新たな時間が自分のなかに流れる」という言い方でもいい。

 小栗映画の不自由さとじっくりと付き合うことで、世界の見え方や、時間の流れ方が少し変わる。その変化は、これまで既成の世界観や時間観に縛られていた自分を、少し自由にするのではないか。がんじがらめの価値観(世界の見え方、感じさせられ方)に縛られた状態のなかの息抜きのような“感動”よりも、既成の縛りからの自由の方が遙かに大事だ。

 小栗監督を、「泥の河」の成功より遠ざけてきたものは、そういう真摯な思いなのかもしれない。

 ただ、今日、「泥の河」を久しぶりに見て思ったのは、この映画のなかの感動が、現代社会における多くの表現のように、既成の価値観のフレームの中に閉じ込められた”その場かぎりで消費される高揚感”とはまったく異なる領域にあるということだ。

 時代背景はまったく異なるのに胸を打つというのは、そこに普遍的な何かがあるからだろう。もちろん、原作が素晴らしいということもあるが、その素晴らしさを映画が引きだしている。

 私が感じたのは、”哀”の美しさだ。現代の消費社会においては、”哀”はみすぼらしいものとして扱われてしまい、同じ音の”アイ”でも、”愛”の方がもてはやされる。

 しかし、多くの”愛”は、自分を大事にしたいという思いから生じている。「こんなに愛しているのに、私と仕事、どっちが大事なのよ!」というのが典型だ。それに比べて、”哀”には、自分の主張や我執はなく、自分と他者や世界との距離が切なく受け止められている。「泥の河」は、その”哀”の美しさが胸に迫る映画なのだが、それに気づかされることもまた、現代のように自己愛が過剰な時代において必要なのではないかとも思った。