時について、そして、これからについて

 「風の旅人」第31号(4/1発行)から、「時」をテーマに編集している。
 「時」に対する概念が、私たちの、人生観や世界観に大きな影響を与えていると思うからだ。
 私たちは、「時」というものを改めて意識しなくても当たり前のように存在するもののように受け止めている。しかし、「時」の感じ取り方というのは、私たちの意識の持ち方が知らず知らず構築していったものであり、『時』は、最初からあったものではなく、私たち自身が作り上げたものなのだ。
 「時」の概念を抜きに私たちの世界のなかでの在り方を考えてみると、私たちは、今この瞬間に影響を与えている「これまでに起こったこと」から、今この瞬間の影響を受けていく「これから起こること」まで含んだ「関係性全体」の中の一瞬一瞬を、不可逆的な波となって、複雑精妙な影響を受けたり与えたりしながら生きています。すなわちこの一瞬の営みは、どんなものでも「これから起こること」に対して何らかの揺らぎと影響を与えていく可能性を秘めたものだ。
 しかし、今日の社会で教えられることは、私たち一人一人の営みとは関係なく遠い昔に「時間の始まり」があって、それが「終わり」に向かって進んでおり、その予め定められた直線的な時間の中に個々の営みが位置づけられているという概念となる。歴史年表で描かれる「時間」はそういうものだ。
 私たちは、本来、様々な関係の波を受けて次の波に伝える波の一つであるはずなのだが、社会の時間概念によって、波間に浮かび不安定に揺らぐ小舟のようなイメージを与えられている。
 本来、この世界は何一つ予め定められていたり直線的に固定できるものはなく、常に流動的に乱れ非線形に変化している。その流動状態のなかで、一人一人のリアリティにそって、一人一人が生きる「時」や「場」が生じ、それらの「時」や「場」が寄せ集まり、互いに影響し合い、せめぎ合い、全体としてなるべくして整えられた波となって、うねうねと伝わっていく。一人一人は、波間に浮かぶ小舟ではなく、波そのものとして互いの相補関係のなかで生きている。
 そうしたイメージを誌面を通じて共有していくことが、「時」をテーマに編集するということだ。
 また、これまで「風の旅人」は、写真も言葉も大事にしてきたつもりだが、言葉を伝達していく媒体は、現代社会には文芸誌や新書や単行本など他に無数にあるので、そちらに任せて、今までよりもビジュアルを多く、文章を少なくして、誌面づくりをすることにした。この雑誌のサイズ、印刷クオリティの強みなどをより生かすためにも、その方がいいと思う。
 素晴らしい言葉は、潜在的イメージに働きかけ、表面を覆う薄っぺらい概念を突き動かす力があるけれど、現在は、「●●の品格」などを代表にハウツーものの新書がよく売れるように、言葉に対しては、わかりやすい「答」を求める傾向が強い。安易に与えられる「答」にまともなものがある筈はないのに、自分で悶々とする時間よりも、わかりやすい答えを得てすっきりする時間を得ることが求められるようだ。社会を生きるだけでもストレスがかかるから、本を読んでさらにストレスの負荷を大きくしたくないのだろう。しかし、実際は、自分で悶々と考えるなどストレスに対する耐性を高める努力をしないから、社会のなかで、ほんの小さなことでも大きなストレスに感じてしまうのだ。だから益々ストレスが大きくなって、ますます安易なものを求めるという負のスパイラルに陥ってしまう。だるいと言って身体を動かさないと、ちょっと歩いただけですぐに疲れてしまい、だからますますごろごろと寝転んで、ますます動けなくなるという状態と同じだ。
 いずれにしろ、一見、負荷がかかりそうに見える「言葉」は、読まないことで避けられてしまう。読まないかぎり、その実態と出会うことはできない。しかし、「写真」は、そこにあるだけなので、見た瞬間、その実態と出会うことになる。簡単なハウツー解答を与えてくれず、悶々と考えさせられることの多い写真かもしれないけれど、そういう写真にこそ、表面を覆う薄っぺらい概念を突き動かす力がある。そうした写真と出会う雑誌媒体が現在ではほとんどないので、その「時」と「場」をつくり出すことを、「風の旅人」の存在意義にしたい。
 「風の旅人」のこれからは、これまでとの関係性のなかにあるけれど、そのうえで、その時々は、その時々の必然に応じて変化していく。