”息づかい”の伝わる表現


 
 連休前、編集部あてにCDが送られてきた。
 TOMOKOという歌手と、ピアニストのphillip strange氏のデュオ・アルバムだ。
http://tomoko.syansyan.org/music.html
  連休前はバタバタしていて、音楽をじっくり聴く余裕がなかったのだが、今朝は何となく音楽を聴く気持ちになった。朝から雨が降っていて、窓から見える山桜の緑の葉がしっとりと潤い、風にそよぎ、ゆったりとした気分だったから。
 そして、このアルバムが、そうした空気感にぴったりのものだった。
 なんというか、この人の歌は、歌声の”声”の前に、”息”の気配を強く感じる。”息”が、身体の深いところを通り抜けて出てきて、こちらの深いところに伝わってくる。静かなピアノの伴奏は、その”息”を損なわないように抑制されていて、それによって、”息”が色づき、旋律になり、音楽として膨らんでいく。
 歌が、もともと”人間の息づかい”であるということを、あらためて知らせる歌なのかもしれない。
 私は、最近、仕事中はBGMとして音楽はかけっぱなしにしているが、音楽とじっくり向き合うことは、あまりない。人間の主張や恣意生が強すぎる”音楽”に少々うんざりぎみで、静けさのなかの、鳥の鳴き声や、水の流れ、樹々のそよぐ感じなどの方に、”音楽”を感じる。といって、それらを環境音楽のようにしたものも、人間の都合の良さみたいなものを感じて、あまり好きになれない。
 “言葉”も“音楽”も、本来あったところから離れて、それじたいが人間の自己主張のツールになりさがっているような気がする。右を見ても左を見ても、「私を見て見て!!」という自己主張が、拡声器をもってがなり立てているようで、疲れてしまうのだ。
 言葉も音楽もファッションも、声が大きくて目立った方が勝ち!みたいなもので表層が埋め尽くされ、心の深いところに響いてくる静かなものは、掻き消されてしまう。
 今回、このアルバムを聴いて、私が、昨今の”音楽”に違和感を覚える理由が、なんとなくわかった。
 古来、人間の奏でる音楽や、言葉は、きっと息づかいそのものだったのではないかと思う。
 息づかいだからこそ、自然とも溶け合い、呼応する。それに比べて、人間の自己主張としての表現は、自然と衝突する。人間の身体は“自然”なのだから、身体と呼応する表現を、人間は潜在的に求めている。
 にもかかわらず、巷に溢れる多くの自己主張表現は、“頭”が、あれこれ人間(自分)に都合良いものを分別するので、それに従ったものになりがちだが、実際のところ、それらは“頭”の中だけに都合の良いものであって、身体(自然)には即していない可能性が高い。