近代の男と女 (続き)

 昨日、コローの「真珠の女」のことを書いていると、あの表情が脳裏に焼きついてしまい、地下鉄に乗っている時も、街を歩いている時も、すれ違う女性の表情を自然と眺めることになった。
 東京という環境の問題もあるのだろうが、「真珠の女」のような澄んだ表情と出会うことはない。男であれ女であれ、「鎧を着た男」のような表情になる。
 「近代的自我に支配された男は、気位だけは高く、見かけだけの恰好を付けているが、実のところ意気地がなく、ひがみっぽい」と昨日書いたが、今日の社会では、近代的自我に侵されているのは男だけではない。
 女性もまた、過剰な自己意識で、自己顕示欲や自己主張が強くなっている。そして、自己の権利意識や自己防御意識も高く、そのため、鎧を着たような顔になってしまう。
 女性の社会的地位の向上とか、幸福のためという大義名分で、女性の「権利」を主張し続けてきた人たちが、社会のなかの女性の立場を劇的に変えた。そして、その恩恵を受けた女性が増えたことは間違いない。
 ただ、そのような「権利」を主張する女性の表情が、果たして美しいものかどうかは、しっかりと見定める必要があるだろう。言っていることの正誤よりも、表情が語ることの方に、より真理があると思う。
 男であれ、女であれ、「鎧を着た男」のような表情で、いくらたくさんの「権利」を獲得したからといって、それが幸福につながっていると、その表情が語っていない。
 コローが描いている女性たちは、何かを見切ったような澄んだ表情で、物事の摂理を知り尽くしているような聡明な眼差しを持っている。コローが生きた時代の女性が全てそうだった筈はない。あの時代も、急速に自我が肥大していく時期であり、その自我によって、知識を得れば得るほど卑小になって醜さを増すということが、男であれ女であれ、あっただろう。
 コローは、女性を通して、人間の有り様としての理想を描いているのかもしれない。
 近代というのは、自己の権利を主張し、その獲得と防御のための闘いを正当化する時代であり、それは、国家の闘いであれ、社会闘争であれ、男女差をめぐる闘いであれ、相手を徹底的に攻めるということにおいて、構造的に同じことだった。
 おそらく、そうしたところに真の平和も幸福もない。
 そして、人間の本当の智慧というのも、そうした卑小な自己武装のための知識ではない。
 「真珠の女」の澄みきった深い眼差しは、自己の権利をめぐる様々な醜い闘いと、その闘いに囚われた醜い表情を、冷徹に見つめているように見える。