日本浄土

 藤原新也さんの新著「日本浄土」が発売された。
  最初、本屋で見かけた時、気になったが、敢えて手に取らなかった。
 それでも次の日、やはり気になって、けっきょくは購入した。購入して編集部に戻ると、藤原さんから本が届いていた。なんというタイミングか。
 私たちの世代で旅を重ねてきた者は、藤原さんの影響を受けていたり、その言動に関心を払っている者が多い。
 私は、気になっているけれど、どこかで距離を置こうとしている。たとえば、雑誌などで「旅関係」のものが出ると、必ずといっていいほど、藤原新也さん、沢木耕太郎さん、椎名誠さん等が登場し、「旅といえば、藤原新也!」みたいで、安直に「右へならえ」をしているような感じがして、「風の旅人」などと「旅」を名称にした雑誌を作っている者として、そこには加わりたくないという思いが強いからだ。
 また、年輩者の旅人だけでなく、最近、若い旅人として、写真家兼冒険家?の石川直樹くんが、あちこちの雑誌に出ていて、なぜこうも同じなんだろうと思うことがある。若い世代で、彼よりも写真の実力も旅の奥行きもある人が大勢いるのだけど、一度何かしらの形で注目を浴びると(その注目は、わかりやすいストーリーがきっかけになる)、すぐにそれが権威となって一色に染まるのは、この国のメディアの相変わらずの傾向だと思う。
 藤原新也さんご本人は、画一化や標準化からもっとも遠いところで生きている人だけれど、メディアは、わかりやすいイメージや物語を欲しているから、「藤原新也」という一種のブランドイメージを安易に借りてこようとする。私は、天の邪鬼だから、そうした流れとは一線を画したいという気持ちが、常に心のどこかにある。

 ところが、藤原新也さんの新著が出るたびに、けっきょくは読んで、「この人は、ただ者ではないなあ」と唸らされてしまうのだ。
 最近では、このブログでも紹介したけれど、「渋谷」にも「黄泉の犬」にも、感服した。
  http://kazetabi.lekumo.biz/blog/2006/06/post-cc06.html
 http://kazetabi.lekumo.biz/blog/2006/11/post-e467.html
 世間がどのように「藤原新也」イメージを作りあげようとも、彼は、そのイメージのなかで楽な仕事をしようとは微塵も思っていない。そのイメージを軽々と超えて、脱皮して次々と新しくなっていくのだから畏れ入る。
 今回の「日本浄土」も、「渋谷」や「黄泉の犬」とはガラリとスタイルが変わっている。
 藤原さんの「日本浄土」は、一般雑誌でも連載していたものだが、一般雑誌の雑多な世界に入ると損なわれてしまう繊細な機微が一冊の本の隅々まで行き渡ることで、空気全体の緊張感が美しく保たれ、凛とした気品を漂わせている。
 今回、とりわけ印象的だったのは、藤原さんが書いた俳句および短歌のリズムと写真との和音だ。それが憎らしいくらいに絶妙なのだ。その和音によって、藤原さんが訪れた何でもない場所と、その時間が、ひくひくと息づいてくるように感じられる。
 藤原さんは、名の知られた場所を訪れているわけではない。身の周りを見渡せば、どこにでもあるような場所と時間のなかを旅している。どんな場所と時間も、他に取り替えのきかない関係性があり、その関係性が風景に「いのち」を吹き込んでいる。
 藤原さんは、旅をしながら、その眼差しによって、「いのち」と共振している。
 どこに行っても、瀕死の光景が目に付く日本ではあるが、それでも、僅かながらの「いのち」を見出そうと目を凝らし続けることが、瀕死の状態から抜け出す唯一の道であると藤原さんは祈っているようにも感じられる。
 なぜなら、そのように私たち周辺の瀕死の光景は、「見てもいないのに、わかったつもりになって、切り捨ててしまう」私たちのスタンスが積み重なったものであるからだろう。
 私たちは、見ているつもりで、実際は物事(他者)を見ていない。
 「見えていないのは、世界を失っているに等しい」と藤原さんは書く。
 すなわち、私たち一人一人が、世界を失っている。世界を失っている人間が、日本の風景を作っている。
 具体的には、たとえばメディアが桜の名所など一つの場所を取り上げる。するとそこに人が殺到する。それ以外のところには目もくれない。上に述べた”有名人”に対する関心の寄せ方もまた同じだろう。
 メディアなどがお墨付きを与えた物事が正しく立派で価値あるものとされ、そのお墨付きを確認するように行動する。その行動形態の寄せ集めが、この国の風景になる。
 だから、この国の風景が殺風景なのは、メディアが形成する風景および、それを作り出す人の心の中、さらにはそれを拠り所にする人々の心の中が殺風景だからだと言えるだろう。
 どんな場所にも、そこならでは大切なことや素晴らしいものがあるのだけれど、「右へならえ」をして、お墨付きのものを持ってきて、安易に当て嵌めてしまう。その結果、どこも同じようなものになる。それは、簡単に取り替え可能なものだから、切実さも伝わってこない。つまり、「いのち」が通っていない。「いのち」が通っていないものが、美しい筈がない。
 たとえ無名のものであっても、自分の「いのち」と通い合っているなら、それは、自分にとってかけがえのないものになる。そして、かけがえのなさが伝わってくるものこそが美しいのだ。
 藤原さんの、無名の場所を訪れ、無名の人と出会う旅は、どの局面も自分にとってのかけがえのなさで満たされている。だから、どの局面も美しくなる。そうした旅は、標準化と画一化によって失われた世界を、自分の眼で見て慈しんで関係することで、再び取り戻す旅のように感じられる。

 藤原さんや沢木さん、古くは小田実さん等の影響で、今日では多くの人が気軽に海外に出かけ、旅をレジャーとして楽しんでいる。
 「好奇心」を満たし、日常から逸脱して「リフレッシュ」して、再び、同じ日常に帰ってくる。その帰ってくる日常が、もしも以前と同じように、「右へならえ」の画一化と標準化によって多くの大切なものを失っている世界ならば、常に理由不明の満たされない思いにとらわれ、そこから逃げ出すように、同じ旅を続けるしかない。
 日常が、以前と同じものかどうかは、自分の眼差しに負うところが多い。
 藤原さんの「日本浄土」の旅は、見慣れた日常のなかの「眼差しの旅」であり、失われた世界を取り戻す旅だとも言える。
 静謐なる風景の古池に投げる石つぶてのような藤原さんの俳句や写真や、その感覚を膨らませる文章の、その波紋の揺らぎが、世界を取り戻す力となる。
 かけがえのない世界がそこにあることを示すために、空間を言葉で埋め尽くそうとしても追いつかない。そうではなく、世界のなかに、呼び応えるものがあることを示すだけで、世界の充溢を伝えることは可能だ。そうした”間合い”を、日本人は潜在的に持っている。
 自分の眼で、耳で、五官の全てで、呼び応えるものを切実に探し求める時、人は、はじめて自分の中の荒野にかけがえのない何かを育て始め、そうした一人一人によって作られる世界は、どんな細部も、それじたいの輝きを放ち、隅々まで美が行き渡るのだろうと思う。
 人に見せるためではなく自分の心の中に大切に育てていく物事の、それじたいが発する潔い美しさ。

 藤原さんは「掌の浄土」と言う。
 世界の光景を、政治家や官僚をはじめ世間の御立派な人が議論して計画して作るものにしてしまうと、形ばかりで、細部が息づくことはない。一人一人の手によって整えられる細部だからこそ、いのちを帯びる。そうした細部が集合した全体だからこそ、全体として息づく。
 掌のなかの浄土を見出すことなく、世界全体の平和や幸福や、最近ではエコなど世間受けのよい言葉ばかりを流通させていると、世界は、ますます美しさから遠ざかり、殺伐とそっけなく、無味乾燥としていくだけなのだろう。