2008年11月6日 THA BLUE HERBツアーファイナル

♪人と人は言葉と言葉で繋がっている
 自分の口から発した言葉はいつか必ず自分に返ってくる ♪

 2004年12月29日、雪がちらつく夜。東京・新宿・ロフトに「THA BLUE HERB」のライブを見に行った。生のライブでBOSSの言葉に触れるのは初めてだった。「言葉」というより、吐く息が「韻」となって、身体に直接響いてきた。自分のなかに言葉になる以前の根元的な揺らぎ状態があって、それと激しく共鳴し合う体験だった。
 その日から、自分の心の活力が低下するたび、家のなかで「THE BLUE HERB」の音楽を聴くことがあった。
 そして、昨夜、恵比寿リキッドルームに行った。千人を超える人々が、狭い空間に立ちつくし、その中の一人となって、彼らの音と言葉を体感した
  終演後、BOSSと会って話した。以前、青山ブックセンターで、BOSSが選ぶ10冊という企画があって、そのなかの一冊に「風の旅人」を選んでくれた縁がある。
 BLUE HERBは、音楽と言葉、風の旅人は、写真と言葉、ジャンルは違うけれど、深いところに流れるものが共通していて、心の活力が低下した時に、「風の旅人」の写真や言葉を見てインスパイアされるのだとBOSSは言ってくれる。「風の旅人」に手を伸ばしてページを開くと、どの号の、どのページであっても、そこで出会う写真と言葉が、自分に迫ってくると言ってくれる。
 私も、最近、心の活力が著しく低下していたが、今回の彼らのライブで、自分の深いところが活性化されたような感覚になり、「やるしかないよな」と腹の底で思えるような気持ちになった。
 私の最近の心境が直観的に伝わったのか、BOSSは、「佐伯さん、まだまだこれからですよ」と、何度か繰り返した。
 「これから」というのは、単に、自分の願望とか目的を達成するための道ということではない。すでに、というか、もともと、地位、名声、金銭といった、世間の尺度で計られる願望や目的は、自分のなかにはない。
 私は、自分でも得体の知れないことに向かって、手探りしているようなところがあって、だからこそ、テンションが少しでも弱まると、自分の足場がわからなくなってしまうことがある。一体自分は、何をやろうとしているのか。けっきょく自己満足にすぎないのではないか。そう思うと、途端に気持ちが萎える。 
 心が活性化している時は、頭であれこれ考えなくても、向こうから、様々なことがやってくる。その流れに乗って動いていれば、だいたいうまくいく。心が沈むと、頭で考えることが多くなり、そうすると、向こうから何もやってこない。降りてこないという状態になり、ますますスランプから抜け出せなくなる。
 そうしたことが経験上わかっているから、スランプに陥った時は、あれこれ考えるのではなく、心に力が得られるような動きをするしかない。一番いいのは、濃密なエネルギーを持っている人と会うこと。その濃密なエネルギーというのは、私の場合、世間的な尺度で簡単に計れる目的に向かってまっしぐらに走るようなことではない。常人から見れば得体の知れないことに血眼になっているような人と出会う時に、濃密なエネルギーを強く感じる。世間の計りが通用しない突き抜けた感覚を持っている人。そういう人に比べれば、自分はなんと理性的に小さくまとまっているのかと思わされてしまうが、そう思うことで卑屈になるのではなく、むしろ、自分のなかの小さな枠組みが押し開かれそうな感覚になって、喜びを感じる。自分のなかにも世間の賢しらな尺度とは別の、生命の根元的なものがあって、それが刺激されて活性化されるからだろう。
 それなりに頑張れば達成できる目的に向かうのではなく、どう足掻こうにも出口が見えないようなことだけれども、宿業として、そうせざるを得ないことを必死にやっている人に出会うと、本当に力が得られる。そうした人から発せられるものは、言葉であれ、音楽であれ、映像であれ、他の何かであれ、切実な祈りの気配を帯びている。すぐには手が届かないし、簡単にケリがつかないことだからこそ、祈り続けるしかない。
 「THE BLUE HERB」の音楽からも、そうしたものが感じられる。BOSSが言った「佐伯さん、まだまだこれからですよ」という真意は、個人を超えて、自分たちが思い願う時代が形になってくるのは、少しずつではあるけれど、でも間違いなく、これからだよ、ということだと私は思う。
 


俺達の行動に 重ねた夜に 駆け抜けた時代に 
果たして意味があったかどうかは
それは後々歴史が決めるぜ 
俺達の苦悩に価値があったかどうか
それも後々歴史が決める♪

 彼らの音楽は、ヒップポップとかの、ジャンルで括られるようなものではないだろう。
 音と言葉によって、「時代」を、「世界」を、「いのち」を引き寄せ、そこに出入りする。それを繰り返しているうちに、魂の底の暗い海のようなところが揺らぎ、沸き立ってくるようになって、理性にコントロールされた小賢しい世俗の分別が無化され、自分が世界全体に開かれていく。おそらく、そうした心身の状態こそ、人間と世界の根元的な関わり合い方だろう。

 古代ギリシャのデロス島で神の神託を受けるために行われた儀式も、古代劇場で行われた演劇も、ホメロスの歌を歌え伝えた詩人達の吟唱も、ディオニソス神の前での酩酊状態の祭典も、日本で古来から当たり前のように伝えられてきた様々な祭りも、人間というものが、そのように世俗の分別とは別のところで世界に開かれることで心身のバランスをうまくとれることがわかっていたからこそ、行われていたのだろう。BLUE HAREBの音楽と言葉も、混沌を混沌のまま、命の活力に変えていくことで、似たようなものではないか。
 情報知識や理性というのは、人類史のなかで、ごく最近に生じた究めて不完全な機能なのではないか。理性が働けば働くほど、情報知識が増えれば増えるほど、なぜか人間の生存状態が不安定になるのは、その機能自体が「生命」にとって不完全だからではないか。
 理性や情報知識が社会をつくり、社会の秩序を守る。だけど社会は、人間の生命の全てではなく、一部だということを忘れてはならない。理性や情報知識は人間社会に有効な力を発揮する部分もあるが、それに支配されてしまうようでは、本末転倒なのだ。いったい何のために生きているということになる。
 理性や情報知識よりも、人間の生命を長く導いてきたものは、心の活力だ。その清冽な流れを理性や情報知識のダムで堰き止めるから、澱み、臭い匂いを放つようになる。
  私が、「風の旅人」を通して、曖昧ながら求めているものは、その心の活力に関することだということは、何となくわかっている。でも、人間は他者との関係性で生きているから、心は、他者との関係で、活性化したり、萎えたりしてしまう。
 自分一人だけ、心を活性化させることなど、あり得ない。何かしらの関係でつながっていく人々全体が、計算高く保身に走る理性や情報知識のダムに堰き止められたままだと、自分の心もまた、その澱みのなかで沈んでいく。
 このままいけば、人類の未来というのは、ダムのなかの澱んだ水かさが増え続けて崩壊の危険水域に至るだけかもしれない。それとも、何らかの方法で清冽に流れ出る水があって、その行き着く大海原が未来になることも、あり得るのだろうか。